翻訳にあたって 2005年盛夏

 訳者にとって、本書との出会いは4年前にさかのぼる。東京工業大学資源化学研究所を定年退官して、30年余にわたった研究者生活から基礎化学を説く非常勤講師に転じた年である。東京工芸大学の植村允勝教授(現名誉教授)のお誘いを受けて、同大学芸術学部の「化学概論」の講義を受け持つことになったのだが、そのときに紹介された教科書のひとつが、本書の第3版であった。以来、いくつかの大学での授業の種本として愛用してきた。今般、株式会社エヌ・ティー・エスのご厚意により、第5版の訳書を出版することになった次第である。
 本書は、アメリカ化学会の出版物として、アメリカの学生を対象に書かれた書物である。そして、従来型の化学入門書のスタイルから大きく外れた記述形式を採用している。すなわち、現代社会の様々な課題を12件選んで全体の柱に設定し、それぞれの課題における化学の居場所を提示し、そして、そこにある化学の中身を説明する、というスタイルを取っている。
 授業をしてみると、かなりの数の学生が、高校までの勉強で元素記号や周期表の暗記に対するアレルギーに陥っていることがわかる。しかし、地球温暖化や紫外線問題など、自分自身に降りかかる諸問題については、無関心だった学生はいても、アレルギーになっている学生はまずいない。本書は、(1) 空気汚染、(2) オゾン層破壊、(3) 地球温暖化、(4) エネルギー問題、(5) 飲料水汚染、(6) 酸性雨、(7) 原子力発電、(8) 各種電池、(9) ポリマー、(10) 医薬と薬物、(11) 栄養と肥満、および (12) 遺伝子操作とクローニングという12本の柱を立てる。そして、社会および個人として見た各課題の諸側面を提示してから、それぞれの課題と化学との関わりを示し、次いで、その化学の中身を説き、最後に、社会および個人との関わりをあらためて議論する。このように、章ごとの記述が漢詩で言う「起承転結」の構成になっており、しかも「化学」は「承または転」の場所に置かれているため、「化学嫌い」の学生でもスムーズに読み進むことが出来る。
 しかも、高校までの算数・数学に習熟していない学生のために、科学的表記法や分数計算、ひいては有効数字の考え方までが記述の中に組み入れられており、巻末の付録には、電卓を使った計算も含めて、別途に解説されている。さらに、本文の途中および章末に置かれている設問では、定番の計算問題が半分以下に抑えられており、残りは、随所にウェブサイトの参照を求めながら、学生自身の意見ないし意志を問う問題になっている。
 日本の学生諸君は、大なり小なり理科離れをしていて、とりわけ化学が好きではない者が多いように見受けられる。本書は、彼らに化学の面白さと本質を理解させる上で、極めて効果的な1冊である。講師として本書を利用する場合には、授業で強調しあるいは時間をかける部分を社会との接点にするかそれとも化学そのものにするかについて、授業の目的と学生の状況に合わせて調節することができる。この点が、本書の特長であるとも言えよう。例えば、文科系の学生に対して、アボガドロ数という名称と6.022 ? 1023という数値を暗記させるより、ゼロが23個もつくような大きな数であることを記憶の隅に残させる方が大切であろう。本書は、これができる組み立てになっているのである。
 原書は、アメリカ化学会により、アメリカの学生を対象にして出版された。これを反映して、本書に記される社会問題は、主としてアメリカ社会における状況と世界との関連が取り上げられている。読者諸氏、特に講義用に本書を使われる教官各位には、日本の状況を加味しながら、すなわち、テレビや新聞のニュースおよび日本のウェブサイトを有効に参照しながら、本書を利用されることをお勧めする。それこそが、本書が持っている特長を最大に活用することになるのである。
 翻訳にあたっては、化学の専門用語と日常用語の使い分けに相当の気配りをしたつもりである。しかし、化学の専門家から見れば許し難い点が残されているかもしれない。目的と状況に合わせて、適宜読み換えながら進んでいただければ幸いである。

 出版にあたっては、株式会社エヌ・ティー・エス 科学技術情報部 科学コミュニケーション推進室の岡田建夫室長を始めとする皆さんから全面的な協力と支援を受けた。特に、長倉奈穂子氏には、原書とのつき合わせ、生硬な訳文やなじみのない言い回し・用語の指摘など、貴重な助言を数多く頂いた。本書を読んで化学との距離感が縮まった読者がいるとすれば、その功績の一端は長倉氏を始めとする科学コミュニケーション推進室のメンバーによるのである。心から感謝の意を表する。
Copyright (C) 2005 NTS Inc. All right reserved.