刊行にあたってより抜粋

 毎年、年の変わり目の0時に、各地の寺で除夜の鐘が撞かれます。この除夜の鐘の音から歴史、物理、宗教、音楽、芸術、文学など様々な分野にたどり着くことが可能です。本事典は、音を入り口とした様々な分野への道しるべであるということが出来るでしょう。
 私たちの生活は、朝の目覚まし時計から就寝の衣擦れとため息や寝息まで、どこにいても何をしても「音」を伴います。この世に生を受けて、母親の胎内で安全に心地よく過ごしているときにも、母親と共に様々な音を耳にしていたはずです。聴覚に障害が生じなければ、この「音」との付き合いは生命の終焉まで続くはずです。一方で地域によって音に対する意識はかなり異なります。ヨーロッパでは夜間の騒音に対する嫌悪感が非常に強いようで、隣家の音にも敏感に反応します。都市の入り口にはクラクションを禁じる道路標識があります。列車の発車ベルもなく、夕方の「夕焼け小焼け」が街中に流れることもありません。これらは、単に良い悪いという問題ではなく、音というものに対する認識の差であり、街や建築物、社会の成り立ちと構造、政治や経済などに関わっています。騒音問題は時として大きな社会問題にもなりますが、騒音の発生と処理の問題は工学的・物理学的問題であると同時に、地理的・社会的・経済的あるいは政治的な問題でもあることのほうが多いということができるでしょう。
 このような時代の中で、丸善の百科事典シリーズは極めて意味深いように思います。単に「引く」だけのものではなく、「知る」ことを「楽しむ」ための「事典」という考え方は、「知」を尊ぶ「痩せたソクラテス」への道をつくることにつながります。この考え方を受けて、一般の事典には見られないような記述方式が随所に出てきます。ある項目は、まるで随筆のような非説明的な内容であり、またある項目は思考プロセスの記述であったりもします。
 「音」に関する百科事典である本書が、「音」に関わる研究や仕事をしている方々や学生の方たちにとって、簡単な回答を準備する虎の巻ではなく、思考のマイルストーンとして機能することを心から願います。
 興味に引かれて次々と項目を読むという要素を大切にし、クロス・リファレンスの充実に心がけました。最終的に全部読みきってしまったというようなことでもあれば、私たちとしてはまことに欣快に堪えません。まさに、前述の「百科事典」というものの存在意義がここにあるといってもいいのではないでしょうか。
 本書は、この「音」に関わるあらゆる項目を網羅したいというところから始まっています。いままで、「音」についての「事典」は音響工学を中心とした分野のみで、その他の文科系的な分野が関与することはほとんどありませんでした。「音」という極めて身近でありながら多くの側面を持つテーマを、このような形でまとめることを試みた書籍を他に見つけることは出来ないと思います。その意味において、編集委員の一人として意欲的な取り組みをすることが出来たと自負しています。
2005年12月 編集委員を代表して 田中宗隆
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