監修のことば
 語源から覚える解剖学英単語集もこの『脳単』が第三弾になる。これまでの『骨単』『肉単』が予想以上に多数の読者から好評を得て、監修者も原島氏、出版社とともに読者諸氏に感謝する次第である。それだけに『脳単』出版準備過程でいくつかの不安材料が残された。今回の『脳単』は、ひょっとしてこれまでの『骨単』『肉単』と対象読者層やその幅が少し違ってくるのではないか。また『骨単』『肉単』を読んで面白いと思ってこの『脳単』に期待している読者を裏切ることはないだろうか――。あれこれ思いながら項目の選定作業を進め、そしてさまざまな困難に遭遇した。
 骨や骨格筋は、個々の対象を部位に基づいて網羅的に記述することで用語の解説を行った。そうすることで全体の体裁を保つことができるし、それが正攻法であるからだ。読者は初めから読み進めてもいいし、自分の専門や興味に重点を置いて途中から読んでゆくこともできる。すなわち、個々の骨や骨格筋には比較的独立性があり、部分の解説を各論的に進めても全体の理解につながりやすい。しかし、神経系の場合には事情は少し違ってくる。中枢神経と末梢神経は機能的・解剖学的に一つの大きな連続した臓器と見なすことができる。中枢神経系では多数の神経細胞は軸索という長い突起を出して他の神経細胞とシナプスを作って連結している。その結果、脳の内部では特定の機能を担った神経回路がさまざまな拡がりをもって存在しているのである。  今回も足繁く本学解剖学教室を訪れ、どうすれば分かりやすいイラストや写真が表現できるのかを本能的に感じ取り、迅速に、そして黙々と制作に没頭する氏の姿に深い共感を覚えた。神経核・伝導路の立体的表現や、伝達物質の分子模型図とその説明などにおいて、その成果をみることができる。読者も、本書の至る所に鏤められている写真やイラストに、従来の神経解剖学の教科書にあるものとは違った雰囲気を一見で読みとることができるであろう。
 神経系の大きな働きは「運動」と「知覚」である。神経系をもった動物は運動と知覚という二大機能を使って環境に個体の生存を適応させているのである。ヒトの場合も例外ではない。実際この本を読み進めていけば、末梢神経系と中枢神経系の多くの部分がこの二つの機能のために割り当てられていることに改めて気付くであろう。しかし神経系の面白いところは、創造や思考をともなう言語や芸術といった高度な認知機能が、ヒト特有の神経機能として分化していることである。また、喜怒哀楽に代表される情動行動や摂食・性本能行動も、認知機能や運動・知覚機能と深く関わりをもっていることも、具体的な脳の構造をたどりながらこの本で理解できるはずである。どの動物にもみられる運動・知覚を実現している分子細胞メカニズムを使って、ヒトでは認知機能を実現している不思議さにも改めて感動するかもしれない。また、神経細胞が体の他の細胞と違って再生能力を欠くために脳の損傷は重大な後遺症を伴うことが多い事実と、さまざまな神経機能は中枢神経内の特定の場所や領域を占めていることの関連性にも気付くであろう。神経細胞は、個体と共に生存し続け個体と共にその寿命を全うするのである。神経系のこういった様々な特徴をあれこれ頭に思い浮かべながら、本書の主眼である語源解説やコラムを堪能してもらえればと願っている。そういう行為そのものが脳の活動の所産に他ならないのである。
 氏の筆力は、この領域で今回も見事な世界を構築してくれた。神経系の構造や機能の奥に拡がる言葉の世界に、読者もたちまち魅了されるであろう。『脳単』が、解剖学や言葉に興味と関心のある読者諸氏に広く受け入れられることを切望する。。
2005年4月  東京慈恵会医科大学解剖学第1教授  河合 良訓
序文
 中学時代、特に一年生の頃、私は図書館にあった脳に関する本を片っ端から読んでいた。特に気に入っていた本の一つが、時実利彦著『目でみる脳 その構造と機能』である。あまりに気に入ったため、その本に描かれている脳の側面図や底面図、矢状断(なぜ「矢」なのか当時は疑問だった)、水平断など、いくつもの図版を模写し、その上にトレーシングペーパーを重ねて日本語と英語の名称を書き込んだ。思えば、中学一年生の頃と今とでは、ほとんど同じことをしている(しかも、おそらく本書に掲 載している図より、中学生の時に書いた図の方がよりリアリティに富んでいる気がする)。脳がより柔軟な時期に、人は啓発を与えるもの、触発されるものに接する必要がある。良い本との出会いは人の一生を左右する。本書も、そうした意味では中学生や高校生の諸氏にも是非とも読んでほしいと思う。本書によって医学に関心をもつもよし、言葉同士のもつ繋がりを知り言語学に興味をもつもよし、付録のページを見てイカの魅力に気付き料理人の道を歩むもよし。気の向くままにページを開き、脳・神経と言葉の世界を散策して頂ければ嬉しい限りである(医学を学ぶ諸氏には、気の向くままにというわけにはいかないかもしれないが)。
 当時、私が脳にそれほどまで興味を引かれた理由は「意識」の存在にある。なぜ自我意識が存在するのか? 目を通して脳に入るインパルスがなぜ心像として意識の上に広がるのか? その機構は? 視覚や聴覚、味覚にせよ、すべてニューロンを伝わる電気化学的な興奮に過ぎないものが(それゆえ、共感覚のような症状が時に生じ得るわけだが)、なぜそれぞれ異なる感覚、味や音として意識の上にのぼってくるのか?
 その意識を知るには脳についてさらに知る以外にないと考えた。実際、種々の本を通して興味深い脳の世界に接し、知見を広めることができた。印象に残った本の中の一つには、ペンフィールド(開頭手術時の際に種々の大脳皮質への電気刺激を与え、皮質の機能地図を明らかにした脳神経学者)の『脳と心の正体』がある。これを読んだ時、遠い宇宙を相手にした天文学とは異なり、対象となる脳はすぐ近くにあるにもかかわらず、その実像にアクセスする仕方が得がたく、その研究手法の開発、実験法のアイデアこそが重要で、それさえつかめれば脳機能の解明への糸口となるのだと感じた。あれから十数年が経ち、多くの新事実が解き明かされた。とはいえ、ことに意識に関しては未解明な部分は大きい。今後の脳科学の発展が期待される。  さらに、種々の文献を読んでいて理解しがたいと感じた点がある。いくら色々な脳のイラストや写真を見ても脳の深部の構造がどうも立体的に十分把握できなかったことだ(意識の問題と比べるとかなり卑近なテーマではあるが)。そこで、試みとして脳の矢状断、水平断、前頭断を厚紙に実物大で描いて切り抜き、自作簡易ペーパークラフトを制作してみた。しかしこれではまだ納得できない。
 時が経ち、建築の仕事をしていた時期、建築模型制作のため、敷地の等高線に沿って発泡スチロールの薄板を切っていた時に、ふと脳模型のアイデアがひらめいた。敷地の高低差を正確に再現する同じ手法で、脳の模型も造ることができるのではないかと。早速、5mmごとの脳の水平断の画像をコピーし、発泡スチロールにスプレーのりで張り付け、その形に沿って(もちろん大脳基底核や大脳辺縁系も)切り抜いてゆき、切り終えては重ね(部分的に後で分割できるように接着せずに残し)、最後に段差をヤスリで滑らかにして塗料で着色した。出来上がると、内部の切り抜いた断片の集積によって基底核や辺縁系が現われる。それらを手にできた時の感激はひとしおであった(「尾状核はこんな形をしていたのか!」)。確かに脳の模型は医学モデルメーカーでよく売られているが、完成品を手にするより、自分で組み立てて作り上げる方が、そこには視覚や触覚を駆使して作り上げる分だけ印象に残るし理解も深まる。それに海馬や尾状核、淡蒼球や被核まで取り外せる市販の脳のモデルも見たことはない(私が見たことがないだけかもしれない)。以来、内部の構造まで再現した学習を意図したプラモデルが安価で入手できるなら、医学生の理解の助けに大いになるのではないだろうかという発想が私の脳の片隅に置かれている。プラモデルメーカーの方でこの企画に興味を抱き、共同開発したいという方がおられたら是非ご連絡を頂きたい。
 脳神経の分野の解剖学用語は数多く、本書ではその中の主要なものを取り上げた(とはいえ、さほど重要ではない用語でも語源的に興味深いものは掲載した)。脳の分野に関しては、研究が進むにつれてますます新たな用語が生まれている。むしろ本書を全面的に書き換えるべき事態が起きるほど、研究がさらに進むことを切に願っている。本書は広くて深い脳神経学の領域のほんの初歩の初歩、しかもテキストのように組織的な説明はしておらず、むしろそうしたテキストに付いているオマケのコラムの集大成である。まず、脳神経学用語に興味をもち、言葉に対するイメージを膨らませ、かつ親しんで頂きたい。
 『骨単』『肉単』に関して、多くの方が本シリーズに対する期待の言葉をお寄せ下さったことには感謝の念に堪えない。解剖学の分野以外でもこのような「単」シリーズを出してほしいと望む声を大勢の方から頂いている。今後少し違う分野での「単」シリーズの構想も練っている最中であり、乞う御期待。それとともに、前作の『骨単』『肉単』に関する提案や改善点に関するご指摘を下さった方々には、この場をお借りして厚く感謝申し上げたい。『脳単』に関しても、ご指摘・教授頂ければ嬉しい限りである。
 この度も、東京慈恵会医科大学の河合良訓教授には、単語の選定や語の定義、解剖図に関してご指導・助言頂いた。また東京慈恵会医科大学解剖学教室の脳標本やニューロンの切片のプレパラートを本書の扉やコラムで掲載させていただき、様々な点で快く協力して下さったことに心よりの感謝を申し上げたい。
 (株)エヌ・ティー・エスの吉田隆社長、臼井唯伸氏には、引き続きの御支援のお陰で、シリーズ第3弾の出版を可能にして頂いた。また、古資料の手配や編集を担当して頂いた同社の齋藤道代氏には大変お世話になった。また、日本唯一の顕微鏡専門店である浜野顕微鏡店の浜野一郎氏には、貴重なアドバイスを頂くことができた事を厚く御礼申し上げる。加えて印刷に関して秀研社印刷(株)の鈴木克丞氏には数々の便宜を図って頂いた。医学分野の校正に関しては比嘉信介氏、および藤原知子氏に、また医学英語の校正に関してはメディカル・トランスレーターの河野倫也氏に、解説部分のイラスト制作に関しては東島香織氏、大塚航氏、高澤和仁氏に前作に引き続きご協力頂いた。この場をお借りして、関係者各位に心から感謝の意を表したい。
2005年4月  原島 広至
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