発刊にあたって

 21世紀の社会基盤を支える科学技術においては分子機能材料や分子素子がきわめて重要な役割を演ずる。特に,国家をあげてと戦略的にも取り組まれているIT(情報通信技術)は驚異的ともいえる超微細加工を施された無機半導体素子の開発の止まるところを知らないかとも思われる進展によって支えられてきているが,この流れに技術的にも原理的にも限界が見え始めてきた。これに対して,人間を始めとする生物が具えている神秘的ともいえる精緻で高い機能,アクティブな機能が有機分子の集合体で発現され,さらに個々の分子の性質がきわめて多様で,しかもそれ自体きわめて小さい機能体であることから,分子機能材料には大きな期待が寄せられているのである。
 こうした観点から分子材料,分子素子の重要性が指摘されて以来四半世紀以上経過したが,生物に匹敵しまたそれを超える分子機能材料や分子素子の実現は必ずしも容易ではなく,見通しが明らかになっているとはいい難い。それらの実現には,従来の半導体素子を始めとする無機系材料素子で発展してきた考え方や原理を適用するだけではなく,分子機能材料や分子素子に特徴的な全く新しい概念の導入が必要であり,ハード面のみならずソフト面においても,従来の常識を越えた新しい視点で研究に取り組む必要があろう。
 このような未来指向的研究の過程においても,すでに,従来の概念を超えた新しい分子機能材料素子,しかも現実性の高い材料,素子も現れ始めている。これらは未来素子への足がかりとなると共に,意外に近い将来実用化され,従来の限界,概念を超えた機能材料,素子,デバイスとして画期的なものとなる可能性が見え始めている。
 このような観点から分子機能材料や分子素子に大きい展開への準備ができあがりつつあると考え,平成6年,“分子機能材料と素子開発”を企画し出版した。これとまさに時を同じくして,すなわち,20世紀から21世紀の替わり目に至って分子機能材料素子の研究開発が飛躍的に進展を始めたのである。
 特筆すべきことをいくつかあげると,ここでまず最初に取り上げている導電性高分子に関することだけを見てみても,“導電性高分子の発見と開発”で,白川,MacDiarmid,Heegerの3教授に2000年ノーベル化学賞が授与されたこと,導電性高分子のコンデンサ応用が大きく進展しほとんどの電子機器の電解コンデンサに置き換わり大きな産業になったこと,導電性高分子を用いた有機ELの開発が進展し実用の段階に入りつつあることなど様々な画期的な進展があげられる。
 生物が有機分子材料から構成されていることからも分かるとおり,本来人間を含め,生物にとって有機分子はきわめてやさしい存在であり,また省エネルギーという観点からもきわめて期待が大きく,したがって,環境という観点からも今後非常に重要な地位を占めることは間違いない。実際,生物はその組織の構成,エネルギーの取り込みをすべて有機分子で実現しており,また役割を終えて寿命が尽きるとまた土にかえることからも環境に本来最も適合しているはずである。また,安全でやさしい科学技術の発展にとって,今後,自然から,生物から学ぶところもきわめて大きく,その点からいうと21世紀のテクノロジーにおいてはバイオ技術と深い関わりを持つ可能性が高く,積極的に取り組んでいく必要がある。
 ITが様々なところで様々な形でまさに社会に不可欠のものとしての利用され,さらにそれが高度化するに連れて,それまで知られてはいたが分子機能材料の様々な実際に優れた素子,デバイスとして活用できることが明らかになり,またその研究開発過程で分子材料にそれまで想像だにされなかったような新しい側面が見いだされるなど新しい段階に入っている。特にナノテクノロジーの進展と共に分子材料,有機材料のナノスケールでの精密加工が可能となり,そこから従来は考えもできなかったような新しい特性が見いだされ,全く新しい応用が可能となってきたのである。
 もう一つ特筆しておくべきはオプトエレクトロニクスの分野でフォトニック結晶の概念が提唱され,それが実証され始めたことであり,これは光に対する従来の常識を大きく転換するものである。これはITに新たに大きな寄与をすることになるが,これはまたナノテクノロジーの進展によってその開発が大きく促進された側面ももっている。
 分子機能材料や分子素子の科学技術は物理,電子,電気,化学,高分子,生物,医学など学際領域に大きく広がっており,これらの様々な分野の接触によって未来に対する大きな夢と期待に目を開いた優秀な研究者,学者,技術者が積極的に研究開発に参画したことが,この分野の研究を急速に展開させてきた要因の一つにあげられる。しかし,一方,学際領域の研究色が強いため,広くこの分野に関する研究の進展の現状を的確に把握することが必ずしも容易ではなく,自らの分野ですぐに役立つ可能性がありながら,他の分野での分子機能材料や分子素子の考え方に関するきわめて有用な新しい知見,研究状況を見逃していることも多い。
 本書はこのような事情に鑑み分子機能材料や素子の開発の現状と将来の可能性についての知見を集約し,様々な分野での実用化,応用を触発,推進するために互いを理解可能とし,シーズを提供することを目的に入れて編集を進めた。幸いにも,この学際領域において国内外で重要な役割を演じられている最先端の学者,研究者の賛同を得て,分担執筆をお願いすることができた。各執筆者はそれぞれの分野の第一人者であるがゆえに,きわめて多忙であったにもかかわらず快くご執筆いただいたことに対して編集者として深く謝意を表する。
 なお,本書の完成までこぎ着けることができたのは(株)NTS松風まさみ氏の熱意とご尽力があったからこそであり,併せて謝意を表する。
2003年10月  大阪大学大学院工学研究科教授 吉野勝美
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