医学史事典
= 刊行にあたって =

 医学は人々の健康と生命を守る営みであり, 文明の発祥とともに始まり,あらゆる地域・社会に存在しています.医学の歴史は,医療を提供する医師・医療者の歴史であるだけでなく,医療を享受する民間・社会の歴史でもあります.その原初の形は経験知をもとにしたり,宗教と結びついたりしていましたが,哲学と結びついて一定の理論体系をもつようになり,やがて科学・技術と結びつきを深めて,高度な現代医学へと発展してきました.医学・医療は,あらゆる時代・地域において,それぞれの社会や文化と深く関わり,薬学や生物学など周辺分野と共鳴しあい,さまざまな病気を経験・認識・克服し続けてきました.その意味で医学史は,医学・医療の専門職にとってだけでなく,社会の多くの人々にも意味深いものであると思います.

 日本医史学会Japanese Society for the History of Medicine(JSHM)は,医史学の研究と知識の普及を目的に,1927(昭和2)年に設立されました.日本医学会を構成する141の学会(2022年4月現在)の第1分科会と位置づけられています.医史学では,医学の歴史のみならず,それに関連するあらゆる領域の歴史を幅広く探究します.その歴史の視野には,医学とそれに関わる歯学・看護学・薬学などの諸分野,医療による病の癒やしとその社会・文化との関わり,医史における先人たちの事跡,自然科学・生物学の一部としての側面などが含まれます.さらに日本の伝統医療である漢方医学の歴史も重要なテーマになっています.

 医学の歴史についての書籍は,これまでも数多く書かれてきました.歴史を物語る医学史書は,17 世紀末のルクレール(Le Clerc,D.)による『医学史Histoire de la medecine』(1696, 1723)や18世紀末のシュプレンゲル(Sprengel,K.P.J.)による『実用的医療史試論Versuch einer pragmatischen Geschichte der Arzneikunde』全5巻(1792-1803)から始まり,ガリソン(Garrison,F.H.)による『医学史序論An introduction to the history of medicine』(1929),シンガー(Singer,C.)とアンダーウッド(Underwood,A.)による『医学小史A short history of medicine』(1962, 邦訳1985-86),マイヤー=シュタイネック(Meyere-Steineg,T.)とズートホフ(Sudhoff,K.)による『図説医学史Illustrierte Geschichte der Medizin』(1965,邦訳1982)などの名著があります.我が国では富士川游の『日本医学史』(1904)から始まり,小川鼎三による中公新書の『医学の歴史』(1964),川喜田愛郎による大著『近代医学の史的基盤』(1977)などが広く読まれ,坂井建雄による『図説 医学の歴史』(2019)は最新の医史学研究の成果と現代医学の急速な進歩を踏まえて書かれています.

 こういった従来の医学史書は,書物として通読されることを前提にし, 医学の歴史の流れに重点を置いて書かれていました.今回,日本医史学会が新たに編纂する『医学史事典』は,こういった従来の医学史書とは一線を画し,現代医療の従事者のみならず,伝統医学の医療者・研究者,さらに社会・文化・歴史に造詣の深い方たちの力を結集し,医学・医療とそれに関わるさまざまな事項を収める医学史の総合的・俯瞰的な事典を目指しました.もう一つの特色は, 小項目を並べるのではなく,中項目を見開き1つに収めて「読む事典」を目指したことです.

 本書は全体を5部に分けて, 第1部と第2部では世界の医学史の18世紀以前とそれ以後, 第3部と第4部では日本の医学史の江戸時代までと近現代, 第5部では社会・文化と医学の関わりを扱うことにしました.編集委員長を坂井建雄(日本医史学会理事長), 副編集委員長を小曽戸洋(日本医史学会前理事長)が担当し,それぞれの部について編集幹事と数名の編集委員が分担して項目を選定し,日本医史学会の会員を中心にその分野のエキスパートに執筆を依頼し,ご協力を得ることができました.

 21世紀に入って医学・医療は急速に進歩して,あまねく多くの人たちに高度な医療を提供できるようになり,社会の中で存在感を増しています.2020年から世界に広がった新型コロナ感染症を通して, 医学・医療はますます注目を集めるようになりました.このような時代において,医学と社会との関係も含めて医学の歴史のあらゆる面についての視点を提供する本事典が刊行されることは,まことに意義深いものと考えています.

2022年5月吉日
編集委員長 坂井 建雄
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