霊長類学の百科事典
刊行にあたって(一部抜粋)


 霊長類学は,人類以外の霊長類を主な対象とし,その系統分類,形態,遺伝,生理・脳神経,心理・認知,行動,社会・生態など,さまざまな側面を探る学問です.学問は系統分類を扱う系統分類学,生態を扱う生態学といった具合にその扱う側面により分類されるのがふつうですが,霊長類学は,霊長類(目)という特定の分類群を対象として,そのさまざまな側面を探り,それらを統合して霊長類の総合理解につなげ,ひいては野生霊長類の保全,飼育霊長類の福祉の向上にも生かしていこうとする学問です.もちろんこうした発想は霊長類学に限ったわけではなく,例えば動物学,哺乳類学,鳥類学,爬虫両生類学,魚類学,昆虫学などにも当てはまります.しかし,霊長類学には他の対象学にはない存在意義があります.それは,われわれヒト(生物学では人間のことをカタカナでこう書くことになっています)が霊長類の一種であることに起因する,ヒトの持つ形質の起源とその進化の道筋を探るという意義です.

では,それぞれの形質はヒトに系統的に最も近縁な現生霊長類であるチンパンジーの系統と分岐した後,ヒトを含む人類の系統で派生した固有の形質なのでしょうか.あるいはその形質の起源はチンパンジーとの共通祖先まで遡れるのか,遡れるのだとしたら霊長類の誕生後のどこまで遡れるのでしょうか.またその形質が適応進化したと考えられる場合,その選択圧は何なのでしょうか.

 人類固有の形質は自然人類学(生物人類学)という別の「対象学」が扱う対象です.しかし実際は,霊長類学は自然人類学と連携して人類の起源とその進化という壮大な課題に挑戦し続けていますので,霊長類学は自然人類学の一分科であるという見方もできます.また,ヒトが霊長類の一種であるため数多くの共有する形質があるからこそ発展してきた応用学問として,医科学分野の霊長類学があります.実験動物としての霊長類を対象に,ヒトの病気や治療法の開発を目的として研究を行う学問です.他方,人類以外の霊長類で派生した形質も数多くあり,これらをやはり総合的に理解することで霊長類という分類群独自の起源と進化の道筋の理解につなげています.その中には,ヒトと遠縁の霊長類でヒトと共通の形質が独立に適応進化したと考えられるものもあり,そうしたものは環境の類似性の観点から人類学的関心の対象にもなります.(中略) 

 実は,執筆者は日本霊長類学会会員に限定しておらず,特に会員の少ない分野の章については少なからず非会員の執筆者のご協力を得ました.冒頭で紹介し,本事典のコンセプトとした霊長類学の特徴は,1985年日本霊長類学会創設時のコンセプトであるばかりでなく,1967年に総合霊長類学の拠点として設立された京都大学霊長類研究所のコンセプトでもあります.しかし,日本霊長類学会としてこのコンセプトを維持するのは,それほど容易なことではないという現実があります.また,霊長類学の世界標準ということでもありません(詳細は,第1章「霊長類学の歴史」をご覧ください).本事典に先立つ2017年,John Wiley & Sons社から刊行されたThe International Encyclopedia of Primatology でも,かなりの範囲をカバーしていますが,分野による項目の多寡があります.そういう状況の中,1967年以来のコンセプトにこだわって本事典を完成させたのは,それこそが霊長類学の魅力であると感じているからです.ぜひ本事典を通じて,霊長類学の魅力をご堪能ください.

2023年3月
編集委員長 中川 尚史
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