序論に代えて

 バイオミメティックス(Biomimetics)とは,どのような学問領域を指しているのか,使う人や背景となる専門分野によってさまざまであり,まだ明確な定義はないようである。言葉どおりに訳せば,生物を模倣して役立つ人工システムを構築する,ということになろうが,生物の何を模倣するのかがはっきりと定義されていないのである。
 古くから引用される事例であるが,人は空を飛ぶ鳥を模倣して飛行機を発明したということになっている。では,飛行機の発明はバイオミメティックスの偉大なる古典であるのか。もし,このように生物の機能から触発されて開発された科学技術を対象とするならば,現代科学技術の成果の多くはその範疇に入ってしまう。いわく,魚を真似て船舶が,軽く美しい絹に啓発されてナイロンが,血液の機能を真似て人工血液が,といった具合である。したがって,学問領域としてのバイオミメティックスを考えるならば,そこにより明確な定義がなされることが望ましい。
「バイオミメティックス」なる用語は「バイオニクス」などと並んですでに1960年頃から「自然を模倣した,ないしはそれに類似した構造科学」と定義され,会議なども催されていたようである。このあたりのいきさつは,本書J.F.V.Vincent氏の「バイオミメティックス―技術移転に関する序論」(p.3)に詳しい。化学の分野ではこの用語は1972年,Ronald Breslow教授(コロンビア大学)の論文“The Nature of Aromatic Molecules”中で使われている。ここでは“Biomimetic Chemistry”を生物化学,とくに酵素反応を化学的に実現する領域として考えている。その後,この言葉はより広い意味で生体物質や生体機能を模倣したり,シミュレートしたりする学問として用いられるようになり,最近では,生物が有する優れた物質や機能を広く人工的に取り入れ,生物類似あるいはそれを超える機能を有する物質系やシステムを実現する学問領域としてとらえられるようになってきている。このような流れの中で,すでに数多くの書籍が出版されているし,この言葉を冠した研究機関や組織もある。最近に至って数々のシンポジウムも開催されるようになっている。
 バイオミメティックスの研究領域が,先述のように,生物の仕組みに触発され,それを学び,人知を加えることによって人間社会に役立つような人工システムを構築することを対象とするならば,生物の仕組みを広く深く知ることは,当然のことながら重要になってくる。
 生物を研究村象にするとき,科学者は便宜的に,それを構成する物質,それを動かすエネルギー,それを統制する情報といったカテゴリーに大別し,それぞれが,生体内において合目的的に生成され,変換され,伝達されることによって生命活動は営まれるととらえてアプローチする考え方がある。この場合,バイオミメティックスの研究対象もおのずから物質・エネルギー・情報の生成・変換・伝達として単純化し分類することも可能である。しかしながら,学問のダイナミズムは生物の仕組みが分かれば応用学問としてのバイオミメティックスが発展するといった単純な構図ではとらえきれまい。対象とするものの理解から新しい学問が一元的に生まれるばかりではないことは,これまでの数多くの歴史的成果が示すところである。むしろ学問領域内や領域間に横たわる階層的相互関係の解明こそが新しい学問の発展の契機になるのではないかと筆者は考えている。
本ハンドブックを出版するに至った動機の一つは,学問におけるこのようなダイナミズムに想いをはせたいがゆえである。すなわち,生物界で行われている多彩な仕組みが平明に記述され,その原理が抽出されることによって個々の研究者が仮想とする人工システムに想いをめぐらし,それを創製するきっかけとなることを期待したいのである。
そのため,編集の基本方針として,序論「バイオミメティックス―技術移転法に関する序論」に続いて,総論基礎編と機能応用編とを設けた。前者では,生体で見られる物質・エネルギー・情報の生成・伝達・輸送の仕組みとその特異性が中心に語られている。後者では,それらにできるだけ対応したかたちで,人工構築系で展開されている成果が詳述されている。もとより生物とその機能は多彩でかつ階層的である。「バイオミメティックス」においてもそのような系統性があってしかるべきであると考え,それなりの工夫をした。
編集者一同は可能な限り多くの情報を集めようと努めたが,欠けている部分やバランス上の不釣合いがなくもない。しかしながら,「バイオミメティックス」という新しい学問領域においてそのテクスチュアを明らかにしそれを可視化することは,この分野の発展のマイルストーンとして重要な意味があると考えている。読者諸兄姉は,各章・各項をハンドブックとして活用するだけでなく,21世紀を迎えてこれからこの領域が飛躍的に発展するためにも,このような視点からも広く眺めていただきたい。
本書の編集委員は,無機材料,生医学材料,化学工学,応用物理学,情報工学,そして高分子科学をそれぞれ専門としており,編集作業の終了まで,何度となく議論を重ね,この新しい学問の構成を明らかにするように努めた。それは,広大な学際領域であるがゆえに言い表せぬほどの難しい作業であったが,一面楽しくもあった。
本書出版にあたり,国内外で先導的な役割を演じられている気鋭の研究者に執筆をお願いすることができた。執筆項目は延べ15章に及び,取り上げた項目は150以上,そして執筆者は233名に達している。どの執筆者も,それぞれの分野の第一人者であるがゆえに,きわめて多忙であったにもかかわらず,快くご執筆いただいたことが何よりありがたく,編集者一同,心よりの謝意を表したい。
 本書はエヌ・ティー・エス編集企画部松風まさみ氏の熱心な提案がきっかけとなって生まれたものである。本書の完成にこぎつけることができたのは,同氏の絶えざる努力と励ましの賜であることは論を待たないが・吉田隆エヌ・ティー・エス社長の熱意とご理解があったからこそである。あわせて謝意を表する次第である。
2000年9月30日  編集委員を代表して  長田 義仁
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