監修のことば
 原島広至氏が、「語源から覚える解剖学単語集」の第一弾として「骨単」の初期原稿を持って私のところにその企画の説明のために訪れた時、さまざまな感想を抱きながら、その熱意に押される形でこの企画のお手伝いをすることになった。まず、原島氏の言葉に対する感受性の高さ、造詣の深さに感服した。また、イラストも実際の骨格標本を見ながら、氏が自らコンピュータで描いたものである。言葉や芸術に対するセンスに深い共感を覚えた次第である。その時、面白さや楽しさを失うことなく、この企画で芸術と科学の融合が高い次元で実現可能であると思った。
 一方現代の医療や科学の世界では、その著しい進歩に比例するようにおびただしい略語や専門用語が日々作られ使われている。医療に携わる人は現実に、そのほとんどを語源にまで立ち入る余裕もないまま、それらを使わざるを得ない状況なのである。また医学教育課程においても、学生は膨大な医学知識をひとまず覚えることが要求され、その内容の理解を超えて言葉の語源を考慮する余裕はないようだし、カリキュラムでそれを教える機会もほとんどないのが現状である。医学全体の中で占める解剖学の比重も低下傾向にある。しかし、そういう現状であるがゆえに、医学用語の一部である解剖学用語に関してその語源をたどりながら言葉を理解する、あるいは理解し直すことは十分に意味がある。解剖学については、これまで入門、専門を問わずさまざまな本が作られてきたが、「語源から覚える解剖学単語集」といいうのは非常にユニークな視点から企画された本であり、世界的に見ても類書の存在は記憶にない。
 言葉に敏感になることは、それらの用語を使いこなす時(論文や報告書を書いたり、人に説明したりする場合など)に大きな武器になるはずだし、用語を語源にさかのぼって理解すれば今まで無関係だった言葉が次々に関連を持つことを知って言葉の世界が深くなるからである。
 原島氏は原稿を書き進めていく過程で、その熱心さが手伝って当初の予定よりも用語数が大幅に増加し、本書が楽しみながら覚えると言うより、良い意味で辞書的な性質を持つようになってしまった感がなきにしもあらずであるが、一旦本書を開けば思わず時間を忘れて言葉の魅力に取り憑かれるであろう。
 医療分野の学生はもちろんのこと、広く医療関係者に、そして知的好奇心旺盛な一般の方々にも本書を読んで頂きたい。
2004年3月  東京慈恵会医科大学解剖学第一教授 河合 良訓
序文
 かれこれ二十年近い昔、毎日帰宅途中の一時間を費やして、早稲田の古本屋街の店頭安売り品をチェックして歩くのが私の日課であった。ある日、古本屋の店先に置かれた七百円という格安の英文解剖学図譜を衝動買いした。 Anatomy - A Regional Atlas of the Human Body(Carmine D.Clemente著)というB4サイズのフルカラーの本である。しかし、価格などよりも、その時非常に驚きであったのは、その本を見て「deltoid? デルタ型、三角形、ということは三角筋か。biceps bi-は二つで、cepsは、「頭」を意味する kefalhv ケファレーあたりか、すると二頭筋ということか…」といった調子に、解剖学英語が(はじめて目にする単語であったにもかかわらず)、幾つも日本名として連想できたことである。日常会話で用いる英語の語彙の中で、ギリシャ語はそれほど占める位置が大きいわけではないが、専門用語になればなるほどギリシャ語・ラテン語の占める比率が大きくなる。高校生の当時、ギリシャ語を独学で学んでいたのだが、そうしたギリシャ語の語彙の知識は、英語理解のために極めて有用だ…。そのように感じた時が、まさに私の脳裏に「骨単」の構想の種がまかれた瞬間であった。
 それから時は流れ、建築のパースを3DCGで描くことを生業としていた時分、イベント会場の完成予想図に人間の3Dオブジェクトを加えることを意図して Poser というソフトを入手した。このソフトを使うと人間の骨格を動かして様々なポーズをとらせることができる。買った当初、踊るガイコツCGを、余興で幾つも制作した(建築パースには使い道は全くなかったが…)。
 さらに時が過ぎ、エディトリアル・デザインを手掛けるようになり、以前に作った踊るガイコツの図と、昔の解剖学用語のギリシャ語の語源の興味深さ、そして今行なっている本のデザイン、これら全てが結び付けば面白い本の企画になるとひらめいて、架空の「骨単」のカバーデザインしたのがほぼ一年前のことである。この表紙のみの「骨単」は、私のデザインサンプルの最後のページに置かれていた。そして、およそ半年前、株式会社エヌ・ティー・エスの編集をしておられる臼井・細田両氏と、別の本のカバーデザインの案件で打ち合わせの折、この「骨単」がお二人の目に留まった。その時からこの踊るガイコツは本当に歩き始めたのである。
 制作にあたっては、東京慈恵会医科大学の河合教授のお陰で、実際の骨格標本を見ながらイラストを描くことができた。デジカメで標本を撮影し、それを下絵として、Illustratorというソフトで、なるべく簡潔に、しかし重要なポイントは明確に把握しやすいように描写することに努めた。あるものは、下絵なしで、実際に手に取って観察しながら、マウスのみで「スケッチ」した。とはいえ、頭骨の本当の複雑さ、緻密さ、合理性はいかなる写真や解剖図譜でも決してすべてを表現できない。「肩甲骨」の美しいフォルム、「大腿骨頭」の完全なる球体と寛骨臼とが生み出すフィット感、「蝶形骨」のどの角度からみても翼を突き出している奇妙な造形 − これらは実物を手にしてはじめて実感することができる。コンサート会場の座席で聴く、何十メートルも離れた場所で演奏される妙なるバイオリンの弦の調べも、側頭骨の奥深くにひそむ「耳小骨」の振動によって増幅・伝播された結果なのかと思うと、目の前のその極めて小さな骨が人生に与える影響の計り知れない大きさには驚嘆するばかりである。何よりも深く心を打たれるのは、私が今、手にしている篩骨である。この篩骨の標本には♀20、つまり二十歳の女性という記号が付されている。篩骨を手のひらに載せると、風に飛ばされるかのようなはかなさを感じるのだが、彼女の過ごした短い人生を想うと、そして死しても貴重な標本として医学に貢献し、かつこの本の執筆の上でも私にとって貴重な助けとなっていることを想うと、目頭が熱くなるものがある。本書では、すべての骨はイラストで描いているのだが、篩骨の解説の部分でのみ(p.13)、この実物の写真を掲載している。
 言葉は生きている。それは成長し、増え広がり、変化してゆく。それら言葉のつながり、奥深さを本書を通して感じて頂き、解剖学用語を学ぶことが単調な暗記作業ではなく、好奇心を刺激する愉しみの一つと感じるようになっていただけるなら幸いである。
 本書の制作にあたって、東京慈恵会医科大学解剖学講座第一の河合良訓教授に、お忙しい中、解剖学の実際の現場で使われている用語に関する貴重な御意見を多数頂くことができた。また株式会社エヌ・ティー・エスの吉田社長、臼井氏、細田氏にはこの企画に深い御理解を頂き、実現のために多大な御協力を頂いた。また、資料収集、骨単語データベースの作成に関しては比嘉信介氏に、解説部分のイラスト制作に関しては東島香織さん、高澤和仁氏、大塚航氏にも御協力頂いた。この場をお借りして、関係者各位に深く感謝申し上げたい。
2004年3月  原島 広至
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