「監修のことば」
この企画の話を一番初めに聞かされたのは、大学からの帰り、閉店間際にすべり込んだスーパーマーケットで時間を気にしながら買い物に勤しんでいる最中であった。鞄の中でぶるぶるした携帯電話から聞こえてきたのは、相変わらず忙しそうな北山氏(近畿大学、もう一人の監修者)の声。10 分ほどのやりとりだったろうか、エヌ・ティー・エスという聞き覚えのある出版社名と、「ホネタン」という、焼き肉屋のメニューにありそうな本のタイトル、それに、某か生薬についての出版企画があるらしい、ということだけが、ラオスの現地調査に出る直前の慌ただしい買い物風景に添加されて残った。その後、北山氏に引っ張られる形で行った打ち合せ会で、原島広至氏と臼井、斎藤両サポーターに会った。そこで、「ラテン語の魅力を世の中に知ってもらいたいというのが、そもそもの出発点」と言い切って憚らない原島氏の「(書きたいという)うずうず感」に、「生薬基原(植物や動物)の学名の意味を解説した、生きた本が欲しい」というこちらの欲求がぴたりと合致してしまったのが、この企画をお手伝いする運びとなったきっかけである。

 前出のホネタンは『骨単』で、後続を合わせた解剖学シリーズ4冊ともが、原島氏の手になる英単語集であるが、この『生薬単』は、実は英単語集ではない。では何なのかと言われたら、学名・ラテン名の解説・雑学集とでも表現したらいいのだろうか。もちろん、教科書とも違うのであるが、第15改正日本薬局方を十分に意識して作成されていることは確かであって、薬学を学ぶ学生諸氏にも役立つよう配慮されている。その一方、ちりばめられた雑学や蘊蓄は一般教養そのものであり、読者の文系/理系はおろか、年齢さえも全く気にせずに手にとって楽しんでいただけると思う。
 生薬をとりまく研究領域は、本草学に始まった植物分類学、複雑系をも相手にする生薬薬理学、いつの時代も重要な天然物化学、薬用成分たる二次代謝産物の生合成を相手にした分子生物学、そして日本国だけに収まらないフィールドワークを軸とする薬用植物学・民族薬物学等々、講義室と実験室の中だけでは想像もつかない、ジェネラリストが育つ土壌を具えており、薬学の中では最も伝統のある、また薬学ならではの研究領域のひとつであると思う。しかしながら、研究者の評価が論文や競争的 資金獲得量の多少でなされる現在では、こんな、どこか文科系の匂いさえ漂う生薬学は、薬学の中で異質な領域に映っているのかもしれない。しかし、だからこそこの『生薬単』が生まれる場があった、と思うのである。
 原島氏自身が愉しみながら書き、描いたという気分があちこちに見え隠れするこの『生薬単』は、きっと、どんなバックグラウンドをもった読者にも、好奇心と知識欲をくすぐられる時間を与えてくれるに違いない。

2007年10月 京都大学大学院 薬学研究科 薬品資源学分野 准教授 伊藤 美千穂


 「生薬って面白そう」と直感的に感じる人は多いのではないだろうか。昨今、情報の収集の容易さもあり、我々は薬に関して広い知識・関心をもつようになった。その中でも生薬は自然界から得られるため、より親しみを感じやすいことが大きな要因ではないかと推測している。
 生薬を語るとき、注目すべき点の一つとして薬効成分の存在が挙げられる。いわゆる天然物である薬効成分は、化学式を見ると多少複雑に感じるかもしれないが、化学構造の違いが実に多様な効能を生み出す。私はこの天然物のもつ不思議な魔力に惹きつけられ、効能(生理活性)のみならず、その変換反応(有機合成)によって、今まで知られていなかった新しい反応や、新しい物質を作る研究を行っている。万物の存在に意義があるように、天然物がもつ意義、あるいはエネルギーは計り知れないのである。たとえそれが薬効成分というお墨付きがなくとも、天然物の存在そのものに重要な意味があり、その価値を心眼で見分けることも化学者の重要な使命となる。

 この『生薬単』の監修の話をいただいたときは、まさに上述のようなことを考えていた時期と重なる。
原島氏の出版構想と、古くから使用されてきた生薬の薬効成分を今一度、化学構造の面から再認識したいという自分の強い気持ちとが合致したことが、監修という大役を化学者の立場で引き受けさせていただいた大きな理由である。本書では特に化学式に細心の注意を払い、立体化学を含めた化学構造の調査と描写には万全を期すことを心がけた。化学式と並列して描かれている分子モデル図は、「空間充填モデル(分子モデル)をこよなく愛す」と語る著者・原島氏のアイデアである。化学構造式からソフト変換して得られるこの図は、化合物の形をリアルに表現している。視覚的に「薬効成分とは、こんな姿形をしているんだ」と興味をもっていただければと思う。
 原島氏は生薬の名前の由来を「言語」という概念から正確に辿ることによって、古くから生薬が使用されてきた経験の変遷を、著者の感性も交えながら解き明かしている。化学的な知識も非常に深く、それ以外にも文章構成、グラフィックデザインを含め、著者の「卓越したこだわり」を監修の仕事を通して強く感じた。また深い洞察力と探究心に優れ、化学者である私も終始頭が下がる思いであった。
 このようなバックグラウンドによって作成された『生薬単』は、もちろん専門書として手元に置きたくなる一冊となると期待できるが、一般の読み物としても非常に優れていると読者に肌で感じてもらえるものと確信している。監修者として、このような書物と接する機会が与えられたことに、大きな幸せを感じている。

 生薬学は、古代からの経験と知恵、そして現代の最先端技術が融合することによって成り立っている。しかし未だに知られていない、あるいは機能が十分に解明されていない「生薬」が世界中に宝の山として眠っている。新たな生薬を発見して機能を解明することや、世界中に存在する生薬の保存は、これからの科学の発展に必要不可欠であるにもかかわらず、「生薬」と銘打った大学の研究室が激減していると聞くのは、非常に残念でならない。そのような思いも含め、本書がこれからの生薬学の進展に 大いなる役割を果たすことを願って止まない。
 最後に、本書の監修という非常に貴重な経験を与えていただいた著者の原島広至氏、エヌ・ティー・エス編集企画部の臼井唯伸氏、ならびに斎藤道代氏に深甚なる謝意を表す。

2007年10月 近畿大学農学部 バイオサイエンス学科 バイオマテリアル研究室 准教授 北山 隆
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