ヒトは、世界に存在するありとあらゆる物に名前を付けて来た。夜空に光り輝く星々から、色とりどりの鉱物・岩石、目を楽しませるあらゆる植物、その周りを飛ぶ昆虫たち、空を飛ぶ鳥、川や海を泳ぐ魚…。その結果、辞書には幾十、幾百万もの単語が満ちあふれ、新語が次々と追加され、流行語が現われては消えて行く。我々は“名前を付けたいという欲求”に満ちた生き物である。自分の子供に命名し、友人にあだ名をつけ、自分のペットや愛車に名前をつけたりする。そして、大抵の場合、命名に際してはそれぞれに興味深い由来が存在する(単に語呂が良いというだけのこともあるが)。生物の学名や化学物質名に関しても、それにまつわるエピソードや特徴、歴史が名前の中に凝集されている。その語源を知れば、その語に対する愛着もさらに湧いてくる。

 本書は、「語源から覚える解剖学英単語集」に続く、「単」シリーズ5作目ともいえる。『骨単』、『肉単』、『脳単』、『臓単』に続くのがなぜ生薬? と思う方がいるかもしれないが、学問の分野の中で、ギリシャ語・ラテン語を知っておくと便利な分野は何か、と思いめぐらした結果、生薬学が目に留まった。というのも、生薬学は生薬そのものの名称をラテン語で覚え、その基原植物に関してもラテン語を覚えねばならない。しかし、解剖学用語同様に、ギリシャ語・ラテン語由来の名称は日本人にはなじみが薄い。しかし、その語源にまでさかのぼると、私達が普段聞いているカタカナ語や、英単語とも関連していることが見えてくるはずである。学名を覚えることが、何か呪文のようでつまらない暗記ものではなく、学名の綴り一つ一つに歴史が凝縮した、掘り起こすたびに興味深い出会いが見つかる植物学的・言語学的探索といったイメージをもてるようになることを願ってやまない。

 「生薬」の基原植物となっている植物の和名や学名は、植物学上の特徴を描写している場合が多い。身の周りに自然が失われ、それら薬草を実際に手に取る機会が着実に少なくなっている現在、学習者がそれらイメージをつかむのが困難になっている。本書の中で扱った生薬の基原植物の多くのものに関しては、単に花の写真だけでなく、果実がみのったものや葉の写真も掲載した。また、生薬の写真もできうるかぎり原寸で掲載したいと考えたが、やむを得ず縮小した場合にはできるだけスケールを記した。これらは、生薬がどんな形をしているのか、その基原植物がどんな姿をしているのか、それを理解するための一助となるにちがいない。
 また本書では、紙面の許すかぎり生薬成分の化学式を掲載した。もちろん、化学式があればそれで十分なのだが、あえて分子の空間充填モデルも隣に配置した。この分子モデル図は、植物の成分がどんなイメージの分子なのかを直感的に把握するのに寄与するであろう。例として下にグリチルリチン(カンゾウの成分)を示している。グリチルリチンは水酸基(-OH)が多い糖部は親水性なのに対し、グリチルリチンのアグリコンは疎水性のメチル基が目立ち、色彩的に好対照をなしている。
 これらの分子モデル図は、基本的にChem3D で簡易なエネルギー最小化計算をした立体配置となっているが、なるべく化学式と比較しやすい方向から、多くの官能基が読者の方向を向くように描いている。とはいえ、水酸基の場合は水素が手前になるように酸素を回転させ、ケトンと判別できないような事態を避けるよう配慮した。

 前述のとおり、本書は生薬学の本格的なテキストとは性質が異なってはいるが、薬学や天然物化学の学習者に加え、ハーブセラピスト、アロマテラピスト、また、薬草や漢方に興味のある一般の人、また植物全般に関心をもつ人にとっても読みやすく、生薬学そのものに対する関心を深めるための導入の書となると確信している。
 制作にあたり、京都大学大学院 薬学研究科薬品資源学分野の伊藤美千穂准教授および、近畿大学農学部バイオサイエンス学科バイオマテリアル研究室の北山隆准教授のお二人には、大変ご多忙であるにもかかわらず貴重な時間を賜り、何より終始緻密かつ的確なご指導を頂き本当に感謝の念に堪えない。伊藤先生にご執筆頂いた興味深いコラムを通して、生薬学の最新の現場の様子について、また生薬学の奥深い世界とその醍醐味を垣間見ることができた。また打ち合わせの際に、生薬にまつわる興味深い話を拝聴できたことはきわめて貴重な経験となった。北山先生には、本書に掲載されている化学式を徹底的に調査・確認して頂き、しかもCAS 番号(アメリカ化学会発行の Chemical Abstracts 誌で使用されている化合物番号)もすべて調べて頂くという膨大な仕事を快諾していただき、心より感謝申し上げたい。化学物質名にはいくつもの別名・別表記が存在する。例えば、前述のグリチルリチンはグリチルリチン酸、グリシルリチン、グリシルリチン酸、グリシルリジン、グリシルリジン酸、グリシロン、グリチロン、18β- グリチルリチン…(さらに続く)…があり混乱の元となり得る。CAS 番号は、化学物質 ID の事実上デファクトスタンダードであり、1 つの物質に対して1 つの番号が割り当てられるため、まるで生物における学名のように使われている。これはネットで化学物質に関する文献を検索するために有用となるであろう。

 本書が世に出るにあたり、潟Gヌ・ティー・エスの吉田隆社長、臼井唯伸氏には、深いご理解を頂き、ついに新作完成にまで至ることができた。また、同社営業部の橋本勇・石井沙知両氏には、この度も販売促進を地道に、かつ強力に推進して頂いた。そして同社の斎藤道代氏、松島寿子氏をはじめ、編集企画部の冨澤匡子氏、松塚愛氏、村上一尚氏には大変お世話になった。皆さんのご協力なしには、本書を完成させることはできなかったであろう。
 この本に掲載した美しい写真は、数多くの方々に撮影・提供頂いたものである。監修者の伊藤氏や、北海道医療大学薬学部付属薬用植物園の堀田清氏には、国内での撮影が困難で希少な基原写真を多数ご提供頂いた。東京都薬用植物園では四季を通じて様々な薬用植物の撮影をさせて頂いた。さらに、高澤和仁氏、北川桂氏、松本貴志氏、原島かをる氏には、芽が出る時期、花の咲く時期、果実のなる時期にと頻繁に植物園や自生している野山に赴いて生薬の撮影をして頂き、感謝の至りである。そのほか、巻末に記載した各方面の方々から、記事関連写真を多数ご提供頂き、本書の植物写真をより充実したものすることができた。また、生薬の見本を提供して頂いた星野佳史氏、紀伊国屋漢薬局をはじめとして、いくつもの漢方薬局の方々に御協力頂き、感謝申し上げる。そして、潟fジタル インプレッソの板垣利秋氏、鳩誠一氏には、本書の印刷に関して数々の便宜を図って頂いた。
 今回、私の強力な右腕として堀場正彦氏にアシスタントとして働いて頂き、ラテン語の校正や綴りに関する調査に関しては松元千晶氏に、ギリシャ語の校正や綴りに関する調査に関しては谷川宗寿氏に、英単語の発音等に関しては松元奈保子氏にご協力頂いた。また、イラスト制作に関しては東島香織氏、大塚航氏にご協力頂いた。この場をお借りして、多くの関係・協力者各位に心から感謝の意を表したい。

2007年10月 サイエンス・ライター 原島 広至
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