現代はストレスの時代である、と言われて久しい。現代社会における様々な出来事、国家間の戦争、国内における内戦と騒乱、宗教対立、貧困と飢餓、経済不況、職場における過重労働や失業の問題、学校、地域、家庭などの日常生活の場においても、人々は様々なストレス要因に曝されている。またうつ病や過労死などストレス関連疾患に陥っている人も多い。そして地域や職域などにおいてストレスやストレス関連疾患への対応が喫緊の課題となっているが、世界保健機関や国や地方自治体などの行政レベルから個人のレベルまで十分な科学的、系統的、包括的な対策が行われているとは言い難い。日々ストレスに曝される中で人々は出口なしの袋小路に陥っているといっても過言ではなかろう。その理由として考えられることは、ストレスにかかわる様々な現象や病態についての科学的な研究とそのメカニズムの解明が十分に進んでいないこと、また人々のストレスを評価する方法がいまだ確立していないことにあるだろう。これらは、人々がストレスに立ち向かい、ストレスを克服するための必要条件である。
 ここに紹介するストレス百科事典“Encyclopedia of Stress Second ed.”(Academic Press, 2007)は、1907年にハンガリーのブダペストで生を受けたハンス・セリエ博士により研究が開始されて以来深化し広がっていったストレス科学研究にかかわるあらゆる項目を、余すところなく網羅しエンサイクロペディアとしてまとめた大著である。第1版は2000年に出版されたが、大変好評であったため、新たに30%の項目に加筆、更新がなされ、9・11などのテロや暴動、分子生物学における新知見など2000年以降新たに加えられた100余りの項目が加わり、第2版として出版された。ストレス科学に関連する研究のこれまでのあらゆる知見が17領域、545もの項目、全4巻3500ページにまとめられたものである。この第2版が出版された2007年は、ハンス・セリエ生誕100周年に当たり、彼の生地ブダペストと研究所のあったカナダのモントリオールでセリエ追悼の記念シンポジウムが開催され、特にモントリオールではノーベル生理学賞受賞者のロジェ・ギルマン博士をはじめとする錚々たる高弟達が集い、セリエ博士を追悼した年でもあり感慨深いものがある。
 本書の内容は、ストレスの生理学、視床下部下垂体副腎系、交感神経系、免疫系のストレス反応のメカニズムから、心理社会的ストレス、分子生物学、神経薬理学、うつ病、強制収容所、魚や哺乳類のストレス、刑務所、警察のストレス、地震や災害とストレス、小児のストレス、テロリズムとストレス、原爆とストレス、原発事故とストレス、ホロコースト、湾岸戦争やベトナム戦争とストレス、職業性ストレスなど、実に社会のあらゆる場面におけるストレスと生体のあらゆる側面からのストレス反応メカニズムについての記述がある。各々の項目は当代一の執筆者が書き下ろしたもので、大変興味深く、また最新の科学的な情報が網羅されており、ストレスに関心を持つあらゆる人に役立ちうる書である。
 今回、丸善株式会社から創業140周年記念事業として翻訳を依頼された日本ストレス学会は、ストレス科学研究をキーワードとして多方面の研究者が一堂に会した世界でも珍しい学際的な学会であり、このような記念事業を担うのにふさわしい組織として、依頼をお受けした。翻訳に携わった人々は、主に日本ストレス学会の会員であり、分子生物学から社会医学までの多様な分野においてストレス科学研究を行う我が国のストレス科学の専門家である。また、学会員でカバーしきれない一部については、当該分野の第一級の専門家にご協力をいただいた。本事典が、我が国におけるストレス研究の飛躍ならびに、あらゆる分野のストレス対策と社会の健全な発展に役立つことを願ってやまない。

(「刊行にあたって」より 日本ストレス学会理事長 東京医科大学教授 下光 輝一)
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