バイオフィルム革新的制御技術
はじめに 微生物制御3.0 を拓くために
近年,地球上の多くの微生物は集団化した状態つまりバイオフィルムの状態で存在していることが明らかになってきた。 そして,微生物は健康・食(農)・環境に幅広く,深くかかわっている。 我々人間の細胞数は37 兆個程度であり,腸の中にはそれと同程度の38兆個の細菌が存在しバイオフィルムを形成している。 それらの腸内細菌バイオフィルムが,我々の体の免疫機能のみならず糖尿病やがん, さらに自閉症など脳の機能までと幅広く我々の健康に深く関与していることが明らかになりつつある。 そのような背景から,人間は細菌との複合生命体であり超生命体と呼ばれている。 また,その関係は人間のみならず,昆虫を含め他の動物においても同様で,すべての動物内に細菌がバイオフィルム状態で存在し, それらの宿主の生命活動に深く関係している。一方,植物の根圏にはさまざまな種類の微生物が存在し, それら根圏の微生物も土壌粒子や根の表層でバイオフィルムを形成しており,動物と同じく植物の生命活動に深く関与している。 また,我々の生活においても,発酵食品・発酵飲料やバイオマスエネルギー・水処理,さらには感染症や金属腐食等, 微生物バイオフィルムはさまざまな分野に関与しており,その制御は健康・食・環境のすべての分野で求められている。

人類は微生物の存在を認識せずとも,古くから微生物の制御を行ってきた。 例えばビールの醸造などはエジプト文明ですでにその様子が壁画として残っており,経験が伝承されたものである。 また,我々のなじみ深い日本酒や醤油なども,微生物の存在を知らないのにもかかわらず先人達はそれを伝承してきた。 人類は太古から,文明・文化が誕生した時から微生物の存在を知らないにもかかわらず, 微生物自体を利用・制御してきたのである。 このように微生物を認識せず制御が行われてきたものを微生物制御1.0と位置づけることができる。 17世紀にAntonievan Leeuwenhoek が自作の顕微鏡を発明し, 口腔細菌などからさまざまな微生物の存在を世に知らしめたことが微生物制御の大きな転換点になった。 その後,19世紀に入り,LouisPasteur,Heinrich Hermann Robert Koch により,微生物を単離し, 培養するという純粋培養法が確立され,近代微生物学の基盤そして微生物制御の基盤が構築された。 このような微生物の存在を認知した状態での制御は,微生物制御2.0 とみなすことができる。 現在まで,その基盤をもとに微生物の利用・制御が行われ,各分野で至適化されて来たが, 未だ多くの課題が残っている。

現在も,バイオマスエネルギー・水処理・環境・食品・化粧品・医薬などの多くの分野において微生物の制御が求められている。 そして,それらの殆どが複合微生物のバイオフィルムであるが,これまでは栄養素・pH・酸素供給など工学的アプローチにより, それらの制御は至適化されてきた。しかし,目的の微生物の能力を最大限に引き出すことまでに至っていないのが現状である。 これまで微生物は単なる酵素の袋あるいは触媒のように捉えてきた。しかし,微生物も環境に応じて, あるいは“細胞密度”に応じて能動的に自らの遺伝子発現を制御することで, 自らの形質を制御していることが明らかになってきている。それは,微生物が細胞単独の場合とバイオフィルム状態(集団)で存在する場合, 同じ微生物細胞でも遺伝子発現が異なり,例えばバイオフィルム状態でのみ活性化する代謝などがあることなどがわかってきた。 また,同種同士さらに異属・異種間微生物がそれらの相互作用により制御されることも明らかになってきた。 そして,バイオフィルム内では細胞間でシグナルを介した微生物間相互作用が存在することもわかってきている。 これまで微生物は一匹狼のように単独でかつ単純なふるまいをしながら生活していると考えられてきたが, しかし,彼らは言葉(微生物シグナル)を使ってコミュニケーションし,群れて集団生活しているのである。 これからは,バイオフィルム・相互作用を意識した微生物制御,つまり微生物制御3.0を行う必要がある。

これまでバイオフィルムの解析は,特にバイオフィルムの3次元構造解析などは技術的にも困難であったが, 近年,顕微鏡を使用したイメージング解析技術が発展したことで,バイオフィルムの経時的な観察が可能となっている。 このように21世紀になり,バイオフィルムの解析技術が格段に向上したことより,バイオフィルムの研究が盛んになり, バイオフィルムの理解が進んだ。Leeuwenhoek が顕微鏡という観察技術によって,微生物の存在を明らかとしたように, テクノロジーによってサイエンスは新たなフェーズに進むことができる。本書では, サイエンスとともにそれを支えるテクノロジーについても紹介する。最先端のバイオフィルム解析技術とともに, バイオフィルムの理解とバイオフィルム制御について,それらを牽引する最先端研究者に執筆していただいたので, バイオフィルムに関心のある読者の方々みなに満足していただけるものと確信している。本書が読者諸氏の助けになれば幸いである。
2023年5月
筑波大学 野村 暢彦
 
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