はじめに

 1975年にH. Smallらによっていわゆる「イオンクロマトグラフィー」が発表されてから四半世紀が過ぎた。この方法は,イオンを分析するために登場した方法であるが,古典的な方法に頼ることの多かった陰イオン分析の分野にブレイクスルーをもたらした。
発明以来四半世紀の間,イオン交換樹脂をはじめとする分離材料,サプレッサ,検出器(方法)などの進歩がこの方法をさらに洗練されたものにし,応用範囲を広げてきた。
 「イオンクロマトグラフィー」では,イオン交換と電気伝導率がそれぞれの分離と検出を担っており,心臓部はきわめて単純である。これらの古くから知られていた原理は,いずれもイオンに固有のものであり,それらの結合を思いつくことは何ら難しいことではない。しかし,イオン交換分離には高濃度の電解質溶液が必要であるが,高濃度の電解質溶液内のわずかなイオンの違いを微小な電気伝導率の変化から見積もることはできない。つまり,高濃度電解質を要するイオン交換分離とその環境下では能力を十分に発揮できない電気伝導率検出を結合させ,新たな分析法へと昇華させることは実際には単純でも簡単なことでもない。
 Smallらの巧みさは,サプレッサと呼ばれる装置をイオン交換分離と電気伝導率検出のインターフェイスとして用いたところにある。サプレッサの原理と進歩に付いては第4章を参照していただくこととして詳細は省くが,サプレッサもイオン交換を利用していることだけをここでは指摘しておきたい。つまり,彼らはイオン交換と電気伝導率という古典的な手法を,新たな発想のもとで巧みに組み合わせることで一つの方法を作り上げることに成功した。
 発明以来四半世紀の間,イオン交換樹脂をはじめとする分離材料,サプレッサ,検出器(方法)などの進歩がこの方法をさらに洗練されたものにし,応用範囲を広げてきた。この方法の世界的な広がりは,1988年以降毎年Internationl Ion Chromatography Symposiumが開かれ,多数の論文が発表されていることから伺い知ることができる。また,日本でも日本分析化学会の研究懇談会としてイオンクロマトグラフィー研究懇談会が組織され,討論会や講習会が開催されている。
 「イオンクロマトグラフィー」の多方面への普及と浸透とは裏腹に,その登場の初期から皮肉な現象が起きていたことを指摘しておかなければならない。「イオンクロマトグラフィー」はサプレッサでインターフェイスされた電気伝導率検出/イオン交換クロマトグラフィーである。この方法が有効であることが認識された結果,イオン交換樹脂の合成法の進歩が大幅に促され(第3章参照),サプレッサを使わずに電気伝導率検出ができるイオン交換クロマトグラフィーが可能になった。この方法は,「ノンプレッサ(ノンサプレスト)イオン交換クロマトグラフィー」と呼ばれるが(第5章参照),サプレッサが不要となってしまった結果,「イオンクロマトグラフィー」という言葉の定義があいまいになってしまった。さらに,検出方法として電気伝導率以外のものを用いたり,イオン交換以外の方法で分離されたりするものが次々に登場し「イオンクロマトグラフィー」という言葉の定義のあいまいさが増幅されていった。本書の主題名が「クロマトグラフィーによるイオン性化学種の分離分析」となっているのは,編者,著者らがこのような経緯に思いを巡らせたからにほかならない。
 この分野での方法論的な進歩は,初期(1980年代)に比べると,近年緩やかになってきたように思える。それに呼応するように,「イオンクロマトグラフィー」の名を含む書籍の出版もあまり見られなくなった。編者,著者らは,この方法およびその周辺にかかわってきたものとして,これまでの方法論的な側面を総括し,従来とは異なる切り口でこの分野を眺めることが必要ではないかと考え,本書を執筆するにいたった。また,イオン性化学種のクロマトグラフィーの方法論的側面だけでなく,異なる一面にも注目した。「イオンクロマトグラフィー」の登場以来,それまではバッチ的な実験で地道に積み上げなければならなかったイオン交換データが比較的簡単に得られるようになり,体系的に議論することが可能になった。このことは,従来のイオン交換の理論を見直して,新しい理論系の構築を促す素地ができあがりつつあることを示唆しており,またクロマトグラフィーが今後イオン交換の基礎的分野にも貢献していくであろうことを暗示している。この点を考慮して,理論的な展開とそれによるクロマトグラフィーデータの解釈を第2章に含めた。
 本書には以下のような特徴がある。
(1) これまでの類書が「イオンクロマトグラフィー」の解説本であったのに対して,本書では高速液体クロマトグラフィーを用いるイオン性化学種の分離分析全般について記述した。その結果,「イオンクロマトグラフィー」では中心的役割を果たすサプレッサを,イオン検出のために必要なポストカラム法の一種であるとした。また,言葉のあいまいさを避けるために,誤解のない限り「イオンクロマトグラフィー」を用いないことにした。
(2) 本書の大部分はハンドブックあるいは実験書的な性質を持ち,実践にそのまま利用できる内容を盛りだくさんに含んでいる。一方で,実際の応用データの羅列は避け,重要なものだけにとどめた。応用は,試料の前処理,基本的な測定技術・知識,正確なデータ処理と解釈の積み重ねの上に成り立つと考えたからである。
(3) 実践的な側面を重視すると共に基礎的,理論的背景についても充実させた。実践を繰り返す間に出会う直感では理解できない現象を,もう少し考えてみたいという読者に配慮すると共に,挑戦的な読者には自分の工夫や考えを実践にフィードバックできるよう構成した。
 本書を,これからクロマトグラフィーでイオンを分析してみたい (しなければならない) 方,これまで「イオンクロマトグラフィー」を使ってきたけれどすっきりしないところがあるという方,そしてこれまでにはない新しい方法を開発しようとしている野心満々の方の実務に役立てていただければ幸いである。
2002年3月 編者を代表して  東京工業大学  岡田 哲男
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