WHO環境保健クライテリア
「化学物質の生殖リスクアセスメント」の出版にあたって


 このたび、エヌ・ティー・エス社から、WHOの国際化学物質安全性計画「環境保健クライテリア」の「化学物質の生殖リスクアセスメント」が、小林剛先生の訳注により出版の運びとなったことは、この分野の研究に長年携わっている筆者にとり、まことにありがたいことである。
 WHOが1973年、環境と健康の関係を明らかにするために「環境保健クライテリア」プログラムを開始してすでに20年以上が経過している。この間、科学の世界では次々に新しい発見があったが、近年人類にとって最も重要と思われるのは、何と言っても2003年の「ヒトゲノム解読完了」に尽きるであろう。まことに科学の進歩は日進月歩で、決してとどまることを知らない。しかし同時に、ここまで分かればもうすべて明らかになる、ということも決してありえないことを、ゲノム解読完了後、我々は思い知らされている。どこまでいっても我々の前には次々と未知のカーテンが立ちはだかり、人類をさらなる研究へと駆り立てている。  これまでの環境汚染物質の影響に関する研究を振り返ってみると、以前は急性毒性や発ガン性が主な研究対象であったが、近年は本書のテーマである生殖への影響、または免疫系や神経系への影響が注目されるようになってきた。一方、リスク評価に関しても、個体間における感受性の差や、ライフステージにおける感受性の差について注意を向け、化学物質に過敏に反応するハイリスクグループや胎児などのハイリスク・ライフステージに基準をおいた評価が必要だと言われる時代になった。すなわち、現世代への健康影響についての研究が進んだ結果、影響が出てからでは遅すぎる、胎児期にその要因がある場合もある、ということがわかってきたのである。その結果、ここ数年、次の世代、さらにその次の世代の健康影響を未然に防ぐための研究へとシフトしてきている。
 この根底には、科学技術の進歩によって、化学物質によるDNA損傷以外のエピジェネティックな変化でも生殖・発生において悪影響が出ることが最近報告されたことによる。さらに、各個人の遺伝子多型による感受性の差に関する研究も進んできたことによる。そのため、生物の基本である種の保存に関与する生殖リスクアセスメントは、従来からのリスク評価方法に加え、最新の技術やエンドポイントを用いる必要性が出てきている。
 米国環境保健研究所(NIEHS)の所長であったケネス・オールデンは、2003年2月に開かれたNIEHS主催の「子どもの環境保健」と題するシンポジウムで、「胎児期を含めて、人生の最初の1、2年が、その後の一生を決定付けるほどに重要である」と述べている。まことに深い、重要な意味を含む言葉である。ヒトの受精、発生から妊娠、そして出産と、胎芽から胎児、新生児へ急激に変化し、ヒトとして育つ中に、数知れない関門がヒトを待ち受けている。そして、胎児期のほんのわずかな発生・発達の「ぶれ」が、その後の一生を大きく左右する結果を生むこともある。
 発生学を主な研究テーマとしてきた筆者にとっては、本書のような書物が出版社の目に留まったことに大きな喜びを覚える。  本書は、発生毒性の評価について、そして生殖毒性のリスク評価のためのアプローチについて最近の研究報告をレビューしている点で、専門家の要望に応えるものである。
 さらに本書は、ヒトの生殖やヒト胎児の発生過程、出産後の成長におけるホルモンの働きなど、ヒト生殖についての基礎知識を知りたい人にとっても非常に役立つ内容となっている。また、随所に訳者による丁寧な注釈が付けられており、この分野に親しんでいない人にもわかりやすいことこの上ない。
 この問題について専門的に知りたい人々、基本的な生殖機能や発生毒性について知りたい人々、どちらにとっても貴重なマニュアルとなることは間違いない。さらに、このクライテリア作りに関わったWHO関係者に思いを馳せれば、本書の日本語訳が出版されたことは、大いにその労を慰められることであろう。
 本書は貴重な書物ではあるが、一般の流行小説のようには売れない。ごく限られた専門家からの手に取られるのみである。そのような儲からない書物を出版しようと決めたエヌ・ティー・エス社、同社に働きかけて、黙々としかも熱心に翻訳および注釈の執筆に労力を尽くされた小林先生を賞賛して、本書推薦の言葉を終える。
2005年春 千葉大学大学院医学研究院 森 千里
訳注者のことば

 このたび、昨年の前著『WHO環境ホルモンアセスメント』に引き続き、同じWHO環境保健クライテリアによる同領域についての『WHO化学物質の生殖リスクアセスメント』を発刊できましたことは、研究者として望外のよろこびであります。
 前著は、主として起因物質サイドからのアセスメントであるのに対して、今回は有害影響の側面からの評価といえましょう。これは、あたかも「環境ホルモンと生殖」という巨大な課題に対して、表裏2方向から攻撃している図のように見えます。
 研究の方向性、すなわち「光の投射方向」により、多少なりともこの「怪物」の形相が明らかになるものと期待しております。これらに、先年、刊行された拙書『内分泌撹乱物質スクリーニングおよびテスト諮問委員会(EDSTAC)最終報告書』(2001年、丸善)を加えた「三点セット」により「総合的攻撃力」は相乗的に増強されたと信じております。
 WHOの環境保健クライテリアにつきましては、冒頭部に解説を収載しておりますが、世界の科学者の英知を集大成した最高峰の科学的知見であります。今回、そのシリーズの一つである「生殖リスクアセスメント」の日本語訳注版の発行を許可頂いたWHO国際化学物質安全性計画局長メレディス博士に衷心より御礼申し上げます。
 また、今回、発生学、解剖学、環境ホルモン学など広範な領域にてご活躍の千葉大学大学院医学研究院教授の森千里先生からは、発生・生殖科学の深い造詣に基づく的確なご示唆およびご懇篤な推薦のお言葉を頂き深謝申し上げます。
 なお、本書の発刊は、最先端かつ高水準の優れた科学書の普及に長年貢献されてこられたエヌ・ティー・エス社の吉田社長のご理解と、難解な専門用語の多い拙稿に対する精緻な編集校正作業にご協力下さった同社編集企画部の椙谷さおり氏のご努力によるものであり、心より感謝申し上げます。
 終わりに、本書をご選択された読者各位に御礼申し上げますとともに、研究成果の飛躍のため、これらの強力なツールを十分に駆使されますようお願い申し上げます。
2005年 弥生 小林 剛拝
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