発刊にあたって

 われわれの身の周りを見渡すと,ポリバケツから携帯電話に至るまで高分子化合物でつくられた製品で満ち溢れている。20世紀を振り返ってみると,数々の発明・発見がわれわれの生活様式や工業技術に大きな変革をもたらしてきたが,なかでもコンピュータや原子力の活用と共に特記すべきことは,高分子化合物の実証とそれを契機に登場したさまざまな合成高分子の出現である。合成繊維,合成ゴム,合成樹脂の製造に端を発した高分子工業は,それを原料面で支えた石油化学工業の大きな発展を促し,両者は車の両輪となって飛躍的発展を遂げた。その結果,次々と新たな高分子物質がつくられ,その物性は金属やセラミックスにはない特有のものであるため,その代替え品に留まらず,さまざまな新しい材料開発を促した。現在,耐衝撃性,耐熱性などでは天然物を凌駕する高性能の構造材料が出現している。コンピュータの発明は20世紀後半の人間の生活様式を一新したが,その発展を大きく支えたのは高分子材料の活用であり,高分子のもつ特質が I T革命の牽引的役割を果たしたといっても過言ではない。
 機能材料という面からも,イオン交換樹脂や膜としての活用は古くから知られていたが,電子・光・情報・医用材料への展開はハイテク時代の契機をつくった。例えば,絶縁体であると考えられていた合成高分子に電気伝導性を導入してノーベル賞を受賞された白川英樹博士の研究は,新たな機能材料を産み出し I T産業への道を拓いた。またカテーテルや人工臓器のような生医学材料への展開は,人間の平均寿命を著しく延ばす大きな要因ともなっている。このように合成高分子は機能面でも大きな進歩を遂げてきたが,現在利用されている機能は,生体高分子の示す精緻な高機能発現と比べると,まだまだ格差は大きい。高機能を有する高分子材料の設計は,21世紀の夢多き研究課題でもある。さらにまた高分子化合物の活用は,専門家のみならず異分野の技術者にもますます広がることになるであろう。しかしながら,生活が豊かになり,物の消費が拡大するのにともなって,資源・エネルギーの枯渇,地球環境,廃棄物処理などの問題が避けられなくなっている。このような人類の存亡に係わる事態の解決のためにも,リサイクルをも考慮した高機能高分子の設計が強く望まれている。
 こうしたさまざまな課題を乗り越えるには,いろいろな分野の協力が必要である。そのためには高分子化合物の基本的な概念の正しい教育が重要である。高分子化学や高分子科学の教科書に注目すると,優れた教科書が多数出版されている。材料という立場に立っての分かりやすい解説書も書店の書棚に並んでいる。それでも筆者が実際に教壇にたって痛感したことは,高分子の本質を基礎から分かりやすく解説した教科書の必要性である。また,いろいろな方から学問としての体系を崩さず,分かりやすく解説した入門書を待望する声を聴く機会も多い。そうした諸状況を勘案し,このたび自ら筆をとることにした次第である。
 執筆にあたっては,入門書であるから,あえて専門家との共著にせず,分かりやすさを念頭に一人で書くことにした。筆者は大阪大学理学部高分子学科,高分子学専攻で教鞭をとった経緯から,専門の合成のみならず,構造や物性の研究成果を耳にする機会に恵まれ,そのような本の執筆は筆者の使命ではなかろうかと思ったことも事実である。福井工業大学での体験はそれに拍車をかけることになった。
 本書を書き進めるに際しては,永年の朋友である中前勝彦神戸大学名誉教授,大阪大学大学院理学研究科の則末尚志教授,足立桂一郎教授,田代孝二教授,佐藤尚弘教授,金子文俊助教授,四方俊幸助教授,奈良教育大学梶原篤助教授には,御多忙な中,それぞれ御専門の分野を入念にお読み戴き,問題点の指摘を含めて多くの御助言を戴いた。本全体に関しては筆者の研究を支えて戴いた原田明教授,橋爪章仁博士,山口浩靖博士に注意深く読んで戴き,問題点を御指摘戴いた。先生方には感謝の念に絶えない。お蔭さまで,“わかりやすく,間違いのない”教科書になったのではないかと思う。しかしながら,いったん出来上がってみると,さらに改善したいところも散見する。内容などについて,読者からの御指摘,御叱正をいただければ幸いである。
 なお巻末には各章ごとのやさしい問題を設けている。それぞれの問題には解答のヒントだけを与え,あえて解答は付けなかった。近年,問題とその解答が書かれた教科書を目にするが,教育的な面では理解に苦しむ。各問題にはヒントを付け,分からない場合にはヒントに示した箇所を読めば,その答が自然に出てくるようになっている。読者は理解を深めるために問題を解いていただきたい。そして本書を基礎がきっちり書かれた分かりやすい入門的教科書として愛用していただけるよう祈っている。
 最後に,本書の執筆にあたり数多くの書籍・論文を参考にさせて戴いた。これらについては巻末に纏めた。心より感謝の意を表する。また,よりわかりやすい内容を目指すあまり,(株)エヌ・ティー・エスには度重なる図表の差替えなど,多大の御迷惑をかけてしまった。本書の出版は,吉田隆社長,松風まさみ副部長,臼井唯伸課長をはじめとする皆様の御尽力によるものであり,深甚の謝意を表したい。
2003年8月  著者しるす
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