翻訳にあたって

 研究テーマの提案から成果を出すまでを3〜5年間でやってのけることが求められる時代にあって,本書は1000年のタイムスパンでこれからの化学を考えてみよう,という壮大な構想に立って編集されている。
 現代のアカデミーの原点としての伝統を自負するヨーロッパの37大学がヨーロッパ共同体EUの大学版として連携したCoimbraグループは,1999年10月7〜10日,イタリアのパビアにて,来る千年期(第3ミレニアム)を視野に入れた化学分野における研究・開発に関する重要なテーマを取り上げ,「Chemistry at the Beginning of the Third Millennium」と題して第5回会議を開催した。本書はその講義録をもとに上梓されたものである。
 世界史を眺めてみると,第1ミレニアムはローマに皇帝制度が成立した頃から神聖ローマ帝国が始まる頃まで,わが国についてみると,奴国の金印が届いた頃から平将門が殺された頃までである。その間に化学がいかに大きな進歩を遂げたかについては,正倉院の収蔵物を見れば十分に納得できる。中国で火薬と磁針が相次いで発明されたのは第2ミレニアムの初めであるが,それからつい先年までの1000年間に化学が遂げた掛け値なしに驚くべき進歩については,読者諸氏が身をもってよく知るところである。化学に限らず世界の変化について1000年単位で思いをはせるのも,楽しく,かつ有意義なリフレッシュであろう。
 化学は物質の科学であり,物質の最小単位は分子である。よって,材料の極限は分子であり,第3ミレニアムの化学の行く手は,極言すればいかに多種多様でワイルドな分子デバイスを創製するかにある。本書は,分子を材料として利用する際に,そのシーズとなり得る分子や,シーズとしての兆しをはらむだけでまだ受粉もしていないやに思われる分子について,さまざまな視点と側面を提示している。各章の著者はいずれもそれぞれの分野のフロントランナーであると同時に,ヨーロッパの伝統的な大学で多くの研究者・学生を率いる,教授(Professor)あるいは教授・博士(Professor Dr.)として研究者の育成にも尽力している。本書が読者諸氏にとって,いささかなりとも有益な知識の源泉となり,また今後の研究・開発の一助になるとともに,著述に表れる著者それぞれの個性や人柄の一端をくみ取って,国際会議等で接触する際の参考になれば,訳者としてはうれしい限りである。
 原本には,講義に用いたディスプレイをハードコピー化する際に生じたと思われる図の色落ちや線落ちが散見される。単語のつながりが腑に落ちない文章もわずかながらあった。翻訳にあたって補足・修正に極力努めたつもりであるが,まだ不十分な点が残っているであろう。読者の許しを乞いたい。
2001年12月  廣瀬 千秋
遠藤  剛
序言

 本書は,1999年10月7日から10日にかけてイタリアのPaviaで開催された,「Coimbraグループ」のメンバーとなっているドイツおよびイタリアの大学の研究者による会議「第3ミレニアムを化学はどう拓くか(Chemistry at the Beginning of the Third Millennium)」の会議録である。Coimbraグループは,大学における研究と教育の動機づけを促進するとともに大学制度を前進・発展させるためのガイドラインを提示することを目的として,歴史と伝統を持つヨーロッパの総合大学(universities)をメンバーとして1987年に結成された。Coimbraグループに所属するドイツおよびイタリアの大学は,毎年一つの科学的なテーマを選んで会議を開いてきた。上記Pavia会議は,Bologna(1995年),Jena(1996年),Siena(1997年),Heidelberg(1998年)に続く第5回会議である。これらの会議では,人文科学あるいは自然科学におけるトピックスについて,グループを構成する六つの大学の優れた科学者による講義が行われる。実行委員会はPavia会議のテーマとして「化学」を選択した。会議では化学の先端を行く研究分野である材料科学,超伝導物質,超分子化学,生物無機化学,フラーレンの化学,液晶,光誘起電子移動などが発表された。
 本書のタイトルと会議の名前は,会議から3カ月足らずのうちに新しい千年紀を迎えるというタイミングと提示されたテーマの魅力あふれる多様性に由来している。200年を少し超えるだけという化学の歴史を考えても,また実験を主体とする学問上の性格から現時点の状況を重視しがちな化学者にとってはなおさら,1000年先を見越そうとする本書のタイトルに違和感を抱く向きがあるかもしれない。確かに化学における研究は,だれも予期しなかった展開を見せたり思いもよらない障害にぶつかったりするものであるから,1000年先を考えることなど,とんでもないことかもしれない。タイトルのキーワードも地道に10年程度にするべきかもしれない。しかし,化学が「物質を巧みに使いこなす」という人類の活動の一端である以上,人類が地球上にある限り,10年はおろか100年を越えて,願わくば1000年をも越えて進展を続けるものであると編者は信じる。この進展を支えるのは自らの研究の意義と意味に対する研究者の信念と情熱である。Pavia会議には次代の化学を担う若い研究者が多数参加して,現代化学の最前線に触れるとともに指導的な化学者と気軽に交流することができた。このことは編者らにとってこの上ない喜びである。彼ら若手研究者を会議に招待することを可能にしたPavia大学当局およびCARIPLO財団の温かい支援に感謝の意を表する。
2000年2月,Paviaにて記す  Luigi Fabbrizzi
Antonio Poggi
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