発刊によせて

 バイオサイエンス、バイオテクノロジーがゲノムからポストゲノム時代に入った。多くの生物種の全遺伝子構造が明らかになりつつある現在、生命科学は全遺伝子の機能を解明し人類の福祉と健康に役立てる方向に動いている。植物においても遺伝子の構造と機能が分かれば、人為的に代謝経路を作成、改変する代謝工学が可能である。地球上の生命の根源は、太陽エネルギーを利用して、無機物から有機物を作る植物の光合成反応にある。この植物の機能の解明とその活用が、近未来の食糧生産、植物による工業原料生産、環境修復・浄化などにきわめて重要である。本書編纂の意図は、こうした観点から植物代謝工学の現状と将来を総括的に網羅し、代謝工学によって植物に何が期待できるかを紹介しようとするものである。
 本書の構成は、植物代謝工学の重要性を序論で説き、第1章では世界の植物資源の現状、地球環境はどこまで悪化しているのか、それが植物にはどう影響しているかを導入部分とした。第2章では植物の代謝を人為的に改良するために、それぞれの素反応がどこまで明らかになったかに触れ、植物生理学の教科書的な記述ではなく、素反応のどこを改良することが重要であるかを論じた。第3章では植物代謝工学に必要なゲノムからプロテオーム、メタボロームへと進みつつある科学・技術の最先端を紹介し、植物における現況にも言及した。第4章では、植物代謝工学の食糧増産への期待、とくにストレス耐性付与による植物の生産性向上の試みを紹介した。第5章では、化石資源に依存しない循環型社会の構築には植物代謝工学が鍵になるとの視点から、経済産業省のプロジェクトが目指す、植物による工業原料生産に焦点を当てた。そして第6章では、環境浄化、修復に植物はどのように貢献できるかを述べた。植物は緑の肝臓ともいわれ、数々の汚染物質を浄化する能力がある。第7章では、あらゆる科学技術がそうであるように、新技術には未経験のリスクも懸念される。植物バイオテクノロジーが含んでいる陰の部分は何か、それをいかに取り除くか、リスクとベネフィットの考え方を述べ、将来展望とした。
 植物バイオテクノロジーの最新情報を網羅するために、わが国の第一線で活躍中の多くの研究者に、一部は米国の学者にも、執筆をお願いし、きわめて短期間で完成に漕ぎ着けた。それは現在の科学・技術は余りにも進歩が速く、できるだけ最前線の情報を読者に伝えたいとの執筆者全員の思いからである。化石資源に全面的に依存している現在の文明は大きな転換を迫られている。本書に何度か登場する、「植物の代謝工学を強力に推進しなければ地球上の炭素の循環系は戻ってこない」との主張は監修・編集者そして執筆者全員の一致するところである。年間、地球上の全植物が固定する太陽エネルギーは世界の化石資源エネルギー消費量の10倍もある。植物の能力を平均10%上昇させ、化石資源に相当する工業原料、燃料に利用することは夢ではない。植物が固定した炭素を利用すれば、それから生じる二酸化炭素は植物が再び固定する。炭素の循環系は19世紀までの人類が行ってきたことである。21世紀以降の子孫に緑の地球を引き継ぐ責任は、20世紀を謳歌してきたわれわれ全てにある。植物は太陽電池を備えた生産工場である。何を生産するかは工場に据え付ける機械、すなわち遺伝子、代謝経路次第であり、しかもこの工場は老朽化すれば堆肥に戻る生分解性の工場である。「植物は理想のバイオリアクター」である。本書から是非とも植物への期待と可能性とを読み取っていただきたい。
 植物バイオテクノロジーの最新の全貌を著した書は類をみない。植物の基礎、開発研究に直接携わっている研究者、学生諸氏には、本書から植物代謝工学の全貌を見ていただくと共に、この科学技術の発展のために御意見、御助言を頂ければ幸甚である。さらには食糧、エネルギー、資源、環境問題に携わっている方々、関心をお持ちの方々には、本書を通して植物の重要性に是非とも目を向けていただきたい。石油化学文明が大きな転換期を迎えようとしているが、植物バイオテクノロジーの研究者、技術者だけでは持続可能な社会の構築など到底達成できない。すべての国民の理解と同意がなければならない。
 今、急速に進歩している植物分子生物学、植物細胞工学の知見に基づき、「植物代謝工学ハンドブック」を編纂することはまさに時にかなった試みであると確信する。その成果は必ず政府機関、企業、若手研究者そして社会全般に植物の可能性に理解と認識を与え、21世紀以降の地球と人類に大きな夢と希望を与えるに違いない。
2002年 6月  監修者  新名 惇彦
吉田 和哉
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