監修のことば
 語源から覚える解剖学英単語集の第一弾『骨単』を世に送り出したところ、予想外の反響が寄せられた。読者の方々からは、いくつかの誤植や記述内容の誤りをご指摘いただいたが、一方では「わかりやすい」「親しみやすい」という声も多く聞かれた。そしてそういった反響が、医療従事者や専門家以外の一般の人々から数多く寄せられたことに、うれしさとともに責任の重さも改めて痛感した次第である。記載内容の誤りは逐次訂正していきたい。また、寄せられた要望には「早く第二弾の『肉単』を出版してほしい」というものが多く目にとまった。これらの読者の要望に応えるべくここに『肉単』を世に送り出せることは、大きな喜びである。
 原島氏は、読者や出版社からの強い要望と催促に応えて、きわめて短期間のうちに『肉単』の原稿を書き上げてしまった。ここに改めて、氏の言葉に対する感性と芸術性に裏打ちされた筆力に敬意を表する次第である。従来の解剖学書における筋肉の記載は、起始停止部位を骨表面上に示し、それとは別に複数の骨格筋をできるだけ多く一度に表層から深層へと描画したものが多い。たしかに、それは個々の骨格筋の存在様式を隣接する骨格筋や神経・血管との位置関係から把握でき、実際の解剖に際して役に立つ方法である。しかし、解剖を伴わない場合に、個々の筋肉の存在様式を起始停止部位の情報を含めてトータルに理解するには必ずしも適したものではない。ここに『骨単』では予想しなかったイラスト表現上の困難が生じた。そこで、この『肉単』では、個々の骨格筋が重畳しないようにして同時に起始停止を示す方法を工夫した。そのほか、筋収縮による関節運動の記載方法にも氏独自の工夫が凝らされている。全身の骨格筋の存在様式や作用を、イラストや表を使って読者にできる限り分かりやすく表現しようという氏の努力と工夫は、本書において遺憾なく発揮されていると思う。しかし、本書の主眼はあくまでイラストで示された用語の語源解説にある。言葉の奥に広がる世界に知らず知らずのうちに読者は引き込まれていくであろう。
 本書も『骨単』と同様、医療関係者のみならず、解剖や言葉に興味を持った一般の方々に広く受け入れられることを切望する。
2004年9月  東京慈恵会医科大学解剖学第1 教授 河合 良訓
序文
 半年ほど前、神田古本街散策の際いつも立ち寄る「いざわ書林」という医学書店で、『臨床解剖学入門 Clinical Anatomy made ridiculously simple(S. Goldberg著)』という面白い古書を見つけた。そして表紙をふと見た途端、ある記憶がよみがえり、レジに駆け込んでしまった。なぜならその表紙には、漫画化されたレンブラントの「トゥルプ博士の解剖学講義」が描かれていたからだ。この絵こそ、はるか昔にとても「気になる」絵であった。
 レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)は、独特の光の使い方とドラマチックな構図を得意とする画家。中学生時代に気に入ってよく眺めていた。そのレンブラントの初期の作品で、彼の名を一躍有名にならしめたのが「トゥルプ博士の解剖学講義」※。臨場感のある構図、生き生きとした人物描画、リアリティに富んだ筆致…にもかかわらず、実は解剖学的にこの絵は間違っているという話を当時、何かの本で読んだ。しかしそこには具体的な説明がなく、レンブラントが一体何を間違ったのか、幾ら眺めても分からず、釈然としないまま私の記憶の片隅に置かれていたのだ。
 さて、帰宅して『臨床解剖学入門』を開いたところ、「観察力の鋭い人はハタと困惑するであろう。…レンブラントの犯した大きな解剖学的誤りに気付かれるであろう」とだけ記されていて、結局その疑問には答えていないのである。そこで20年振りに、この絵を見直してみた。この絵のトゥルプ博士は、鉗子で前腕の筋をつまみ上げている。掌側が上で、表層にあること、腱交叉もあることから、この筋は「浅指屈筋」である(本書p.63参照。そのページの解剖図は右手、レンブラントの絵で解剖されているのは左手であることに注意しつつ比較するように)。というところで、私もようやくその誤りに気付いた。お陰で「疑問氷解の喜び」のため3時間程、小躍りすることができた。
 この違いは、作品の芸術的価値をいささかも減ずるものではなく、極めて些細な点に思える。しかし医学的には、この人がゴルフ肘になれば、普通の人と違う所が痛くなったはずであり、極めて貴重な臨床例になったに違いない。この絵は、レンブラント27歳の時、外科医組合の依頼で描かれたもので、彼自身はラテン語の素養はあったが、解剖学には通じていなかったと言われている。ルネッサンス期のダ・ヴィンチや、ミケランジェロが解剖学に精通していたのとは対照的である(もっとも、ミケランジェロは筋肉を愛しすぎるあまり、女性でさえ筋肉描写過剰で、マッチョすぎるとの批判を画家からも受けている)。芸術を志す方で、ヒトをオブジェとした不朽の名作を残さんとする方々は是非、レンブラントの二の舞いにならないためにも、本書を活用し、筋学も頭に置きつつ創作に励んで欲しい。
 医学関係者であれば、名称の由来が「気になる」解剖学用語が、だれしもあるに違いない。本書によって「疑問氷解の喜び」を味わい、30分間位は小躍りしていただければ幸いである。
 前作の『骨単』に関して、沢山の激励の言葉や『肉単』へのリクエストを頂き、感謝の念に堪えない。なるべく反映させるよう努めたが、紙面的な制約等のためやむなく果たせなかったものもあり、ご了承願いたい。また誤植・誤記に関するご指摘を下さった方々には、この場をお借りして厚く感謝申し上げたい。『肉単』に関しても、お気付きの点があればご指摘・ご教示頂ければ嬉しい限りである。
 制作にあたって、東京慈恵会医科大学解剖学第1の河合良訓教授には、この度も貴重なご指導・助言を賜った。また、(株)エヌ・ティー・エスの吉田隆社長、臼井唯伸氏には、この企画に深いご理解を頂き、第2弾発行を強力に推進して頂いた。また、校正・原稿整理や資料調査をして頂いた同社の齋藤道代氏には大変お世話になった。加えて章扉の、鍛え抜かれた逞しい姿をご披露頂いた内田幸二氏、またご協力頂いた(社)日本ボディビル連盟に、そしてカメラマンの高澤和仁氏に感謝申し上げたい。(株)ジースポートの大内実氏には、歩行に関する興味深い画像を快くご提供下さり、厚くお礼申し上げる。加えて印刷に関して秀研社印刷(株)の鈴木克丞氏に数々の便宜を図って頂いた。医学分野の校正に関しては比嘉信介氏、及び藤原知子氏に、また医学英語の校正に関してはメディカル・トランスレーターの河野倫也氏に、解説部分のイラスト制作に関しては東島香織氏、大塚航氏にご協力頂いた。この場をお借りして、関係者各位に心から感謝の意を表したい。
原島 広至
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