“化学便覧 基礎編”は日本化学会編集の便覧として,刊行以来,もっとも精度の高い,世界にもその比を見ない豊富なデータ集として定評を得てきており,多くの研究者・技術者にとって座右の宝典としての声価を高めてきた。化学のほとんどの分野を網羅しかつ信頼できるデータを掲載する一方で,IUPAC(国際純正・応用化学連合)が推奨する化合物命名法,単位を普及する役割を担い,教育現場においても確固たる一つの指針として信頼を得てきた。
 “化学便覧”は日本化学会刊行物として,1952年に“基礎編”と“応用編”の合本が発行されたのを嚆矢とするが,1966年刊行の第2回改訂版からは基礎編と応用編に分離し,それぞれの特徴と利用価値を高めるよう体制が整えられた。本化学便覧基礎編はこのときから10年に一度の改訂という基本方針をあげ,これまでに3回の改訂を重ねてきた・化学の進歩は,近年とくにめぎましく,学問体系の細分化と同時に再構成が進み,また化学が扱う領域が拡大し多様化するにつれ,各分野の基礎的データが他の分野の研究・教育にますます必要不可欠なものとなっている。そのため化学の全分野を網羅しかつ信頼性の高いデータ集の必要性がますます高まっている。日進月歩の現代の研究に携わっている研究者・技術者や第一線の教育者のニーズに応えるためには,常に最近の進歩を取り入れた改訂が必要である。
 日本化学会では,創立125周年記念事業の一環として,“基礎編 改訂5版”を刊行することを決め,2000年春に,従来の慣例に従って,編集幹事会を置き,改訂の基本方針の決定を行った。それぞれの章にはもっともふさわしい編集委員をお願いして,幹事とともに編集委員会を構成し,改訂5版の編集を進めた。本便覧基礎編は研究,教育のいずれにとっても基礎データのよりどころとなる重要な役割を果たしてきたので,本改訂にあたっても,もっとも精度の高い便覧編集を目指した。しかし,同時に,便覧という性格から,より使いやすく見やすいものをつくるということも改訂方針の柱とした。また,本便覧は各分野の専門家のためだけのデータ集ではなく,他分野,周辺分野の研究者・技術者が利用するデータ集でもある。そのため,精密なデータに加えて,正確さや信頼度はそれほど高くなくても数多くのデータが望まれ,おおよその値でも役に立つ場合も多い。今次改訂において,信頼性の高いデータだけを精選したデータ集という従来の方針と,信頼度はそれほど高くなくても数多くのデータを採録したデータ集の要望,というトレードオフの関係に,どのように対応するかを議論した。その結果,編集幹事会において,従来通りの方針に沿って精選した信頼度の高いデータを掲載した冊子体に加え,データの信頼性はそれほどでもないが数多くのデータを収載し,また検索機能のあるCD-ROM版も刊行することを決定した。
 今次改訂版では全章にわたって細部まで検討し,過去10年の化学の進歩を反映させ,改訂5版が今後の10年の手引となるために,ほぼ全面改訂を行った。改訂5版を旧版(“改訂4版”)と比べると,徹底した改訂と充実に読者は驚かれるのではないかと思う。たとえば,有機金属化合物を旧版の3倍採録したこと,不斉触媒反応を新設したこと,結晶構造のカラー画像を旧版の10倍に増やしたことなどは,大幅な改訂ポイントである。また,旧版と今次改訂版を比べると,より使いやすく,より見やすい便覧にするという方針で,もっとも使用頻度の高い“化合物の性質”の章の紙面構成を,構造式を含めたものに全面的に大改変した。これも今次改訂のポイントである。
 さらに,今次改訂の初めての試みとして,CD-ROM版を別につくり,書籍だけに収載するデータとCD-ROM版だけに採録するデータとの2種類のデータを提供した。CD-ROM版には書籍に掲載したデータ以外に,使用頻度の低いもの,値の有効数字が低く,有用であっても他のデータとの関係で書籍には納められないものを多数収録するよう努めた。従来の改訂は,執筆者が収集し精選したデータを他の表との粗密,ページ数の制限などに基づいて編集委員会でさらに削減し,厳選されたデータだけを掲載するという方針であった。今次改訂では,執筆者に数多くのデータ提供をお願いし,編集委員会で再度データを精選して,書籍に載せるものとCD-ROM版だけに載せるものを振り分けた。また,新たにCD-ROM版に収載したデータには,これも初めての試みであるが,出典を付記した。
 このような方針をとったため,改訂5版には“⇒CD-ROM”という表示が頻出することになった。この表示をみて改訂5版はCD-ROMとセットでなければ使うことができないのではないかと誤解される読者もおられるのではないかと思う。しかしこの表示は,CD-ROM版にも書籍と同じデータのほかに,書籍ほど汎用性,精度,信頼性が高くないデータやデータの出典もCD-ROM版に収載されていることを示したものであって,書籍の改訂5版は旧版同様,独立,完結した便覧であることを強調しておきたい。
 改訂4版の序文に,書籍(活字)とコンピュータ(CD-ROM)の関係が,新聞とテレビの関係にたとえて書かれているが,これは10年後の現在でも変わることのない慧眼である。改訂5版のCD-ROM版には,化合物名,化学式,数値などから検索できる機能が付いているだけでなく,多くの表は読者がカスタマイズできるので,書籍と比べると各段に便利で使い勝手がよいと思われる。しかし,書籍にはCD-ROM版にはない信頼に基づく安心感と見やすさ(一覧性や通読性)があり,また座右においていつでも直ちに使える簡便性がある。データ集といえども,書籍の価値は決して下がらないと思う。むしろ,データ集として書籍とCD-ROM版は相互補完的価値をもつようになるものと思う。
 改訂5版の編集を始めたのは2000年春で,刊行までに3年半の年月を費やした。決して短い時間とはいえないが,従来の改訂に要した期間が5〜6年であったことを考えると,組版のスピードアップという背景があったとはいえ,執筆者,編集委員,編集幹事の格別のご理解とご協力があって初めて大改訂を成し得たといえる。また,野村祐次郎先生,中原勝儼先生,稲本直樹先生には第3章“化合物命名法”と第4章“化合物の性質”の化合物名でご協力を頂いた。さらに,丸善出版事業部は適切で多大なご尽力と献身的な編集作業で改訂を推進して下さった。ここに記して深甚な謝意を表する。
2003年 師走  社団法人 日本化学会 化学便覧基礎編 改訂5版 編集委員長 岩澤 康裕
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