監訳にあたって

―新しい時代に向けた「英知を養う化学」の教科書―
 私が旧制中学のときに初めて学んだ「化学」は全くの暗記物であった。毎週、前の週に覚えさせられた事柄を復習させられたものである。私の最も嫌いな科目であった。現在でも俗説ではとかく「化学は暗記物」といわれている。米国では十五、六年前から理科教育を基本的に変えた。従来の理科の授業ではクジラの種類を覚えさせたりしていたが、それを止めて、science inquiry、つまり学ぶ理科の内容がいかにして解明されたのか、探究的に考える理科に変えた。雑多な知識より基本的な考え方を基にして自立して個性的に「考える理科」に切り替えたのである。いまや携帯用のパソコンが出る時代である。これからは、コンピュータのできないことを創造的に考えることのできる「英知を必要とする時代」が到来したのである。加速度的に変化が早くなる時代に適応し、時代をリードするこれからの時代が求める「創造性豊かな人材」の養成に切り替えた。この新しい教育改革は米国だけでなく、欧州など世界に広く取り入れられ、わが国にも「ゆとり教育」として入ってきたことは周知のとおりである。
 この大きな教育変革の中でこれまでとかく「暗記物であった化学」を大きく変えて米国化学会が総力をあげて作った教科書を翻訳したのが、この「翻訳版Chemistry―英知を養う化学―」である。大学の教養レベルの内容ではあるが、適当に飛ばして読めば高校レベルでも使えるものになっている。この本は従来のように「有機化学」、「無機化学」などの分類はない。その意味でnontraditional approach(これまでになかった方法)で、初めから終わりまで考えながら化学の基本を学ぶように書かれてある。実験をさせ、考察へと続く。問題を与え、どのように考えて解くのか、その説明で間違いはないのか、他にはないのか、それがどうして分かるか、開く頁、開く頁すべて考えながら化学の本質を学ぶように書かれてある。各章には多くの考える問題も備えられ、章の途中には取り扱っている概念をまとめてもある。わが国に現在あるきわめてお粗末な教科書とはレベルが正に雲泥の違いである。
 新しい化学の基礎概念を取り扱っているだけに、これまでの化学に馴染んでいる教師にはある程度の違和感があるかもしれないし、新しい試みだけに問題がないともいえない。しかし、それだけに「これからあるべき化学」の一つの典型的なモデルとして、必読の教科書であることは間違いない。この本は化学を通して生徒の考える力を引き出し、個性を育成する仕方を教えてくれる大変に貴重な本であり、わが国の化学教育関係者に是非読んで解ってほしい。また、化学教育の抜本的な改革が新しい時代に不可欠なことを教えてくれる教科書である。
2007年6月 田丸 謙二
翻訳にあたって

 「英知を養う化学」は、自国における化学教育の再生を期して米国化学会が編集した教科書“Chemistry”(W. H. Freeman Publishers, 2005)の訳書で、同じ(株)エヌ・ティー・エスから先に刊行された「実感する化学」(原題“Chemistry in Context”)の姉妹編である。記述されている事項そのものは、いずれも正統的な「基礎化学」で扱われるものである。しかし、記述の方法は、化学に関する知識を必要とする学生を超えて、生物化学、環境化学、応用化学など関連分野を専攻する学生諸氏にも役立つ形になっている。すなわち、記述の順序と形式が「伝統的」な化学教科書の形と違うのである。具体的な実験や実例が提示され、まず読者自身に結果の解釈を求めたうえで、妥当性のある考え方を議論する。すなわち、「正しい知識を教え込む」のではなく、まず学生が考えてから「正しい考え方に誘導する」という、読者の主体性と自発性を最大限尊重する記述方式になっているのである。
 本書の翻訳に手を付けたきっかけは、拙訳「実感する化学」が出版された際に本書の監訳者田丸謙二先生から頂いたご下命である。そして、数カ月を掛けて完成させた訳稿が、(株)エヌ・ティー・エスのご厚意により、田丸先生による綿密な監訳を経て刊行の機会を得た。
 本書の出版に当たって翻訳原稿の査読をお願いし、全体を通して有意義かつ重要なコメントを数多く頂いた岡田勲博士によると、米国で使われている一般化学の標準的な教科書が2.5 kg程度の重さを持つのに対して(本書の原著は1.8 kgである)、日本の高等学校で使われている化学教科書(化学IBと化学II)は、2冊を合計しても0.7 kg程度にすぎないそうである。日本における化学教育の状況がこの事実に象徴されていないだろうか。本書は、化学を目指しあるいは化学に興味を抱く日本の若者諸君、そして、「ちゃんとした化学」の教育を目指す教師・教員諸氏のお役に立つものと確信する。さらに言えば、本書に負けない内容の教科書がわが国でも刊行されることを望みたい。
 記述内容については、化学に関連する分野の学生を対象にしているとはいえ、大学に入学するまでの学習で化学ひいては理数系の科目を苦手にしていた学生にも十分理解できるように書かれている。それぞれの事項が懇切丁寧に、痒いところに十二分に手が届く形で説明されている。そして、様々な概念や「法則」等については、それまでの観測事実を矛盾なく説明するための「モデル」であってそれ自体が「不変の真理」ではないことが繰り返し強調される。
 取りあげられている項目は、当然ながら化学にとって最も基本的な事項と概念である。それぞれの事項が、最新の知識と厳密な定義とともに提示されているから、特定の専門領域に長く携わっている間にいくつかの基礎知識があやふやになってしまった化学者諸氏にとっても、必要なときに参照するための辞典として座右に置く価値がある書物であろう。
 ただ、これから化学を学ぼうとする人たちが本書をめくると、記されている事項の多さに驚いてしまうかもしれない。この多さが読者の拒絶反応につながるのを防ぐために、ひとこと付け加えておこう。本書に記されている事項は、全てをいつでも即座に思い出さなければならないものではない。いわば、化学が関連する分野に携わる人間にとって必要または有用な基礎知識の集約である。そして、読者が本書を通して一度は理解したという事実が記憶にありさえすれば、必要なときに本書を取り出して読み直せばよいのだ。
 なお、一部の実験課題における原書の記述では、廃液の処理、防護めがねの着用、および有毒または腐食性・引火性・放射性薬品の扱いに対する警告が不十分である。廃液の処理と防護めがねの着用についてはできるだけ訳註を加えるようにしたが、読者各位、とりわけ実験を指導する読者には、日本の状況に合わせて各自で十分な注意を払って頂きたい。  また、「モル単位で表した物質量(すなわち広く俗称される“モル数”)」を意味する単語の“moles”に対する訳語等については、しかるべき書き換えを行った。
 最後に、全章に目を通していただき、多岐にわたって不備のご指摘とご意見を頂いた岡田勲博士(東京工業大学名誉教授、前上智大学教授)に心から感謝する。また、訳の内容に関して重要かつ有意義なコメントを頂戴した岩村道子博士(東邦大学名誉教授)および櫻木宏親博士(筑波大学名誉教授)にも深く感謝する。また、文章表現などに関する多くの助言とともに出版にかかわる諸案件の処理をしていただいた(株)エヌ・ティー・エスの吉田隆社長および編集企画部の方々、とりわけ臼井唯伸部長と村上一尚氏に深い謝意を表する。
2007年6月 廣瀬 千秋
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