翻訳にあたって
2015 年春 訳者と本書の出会いは14 年前にさかのぼる。東京工業大学資源化学研究所を定年退職し、研 究者生活から基礎化学を説く非常勤講師に転じた年である。東京工芸大学芸術学部の「化学概論」 の講義を受け持つことになったときに植村允勝同大学教授(当時)から紹介された教科書のひと つが、“Chemistry in Context”の第3 版であった。そして、株式会社エヌ・ティー・エスのご厚 意により第5 版の訳書を「実感する化学」のタイトルで出版してから8 年が過ぎた。原書が第8 版になっているのを機に改訳本を出そうとのお話を受けて出来上がったのが本書である。
本書は、アメリカ化学会の出版物として、アメリカの学生を対象に書かれている。従来型の化 学入門書のスタイルから大きく外れた記述形式が採用されていて、現代社会の様々な課題を12 項目選んで柱とし、それぞれの課題における化学の位置付けを提示し、そして、そこにある化学 の中身を説明するスタイルを取っている。第8 版は、持続可能性社会と再生可能エネルギーを 強く意識して書かれている。
授業をしてみて気付いたのだが、高校までの勉強で元素記号や周期表の暗記に対して拒絶反応 を持ってしまった若者が少なくない。しかし、地球の気候変動や紫外線問題など、自分自身に降 りかかる諸問題に拒絶反応を示すひとはいない。本書は、(1)空気の汚染、(2)オゾン層破壊、(3) 地球規模での気候変動、(4)エネルギー問題、(5)飲料水汚染、(6)酸性雨、(7)原子力発電、(8) 各種電池、(9)プラスチック、(10)医薬と薬物、(11)食物と栄養、そして(12)遺伝子組換え と生命に関わる分子という12 本の柱を立てる。そして、社会および個人として見た各課題の諸 側面を提示してから、それぞれにおける化学の関わりを示し、次いで、その化学の中身を説き、 最後に、社会および個人との関わりをあらためて議論する。第8 版では、“持続可能性社会の実現” と“グリーンケミストリーの追求”が目標として提示される。
高校までの算数・数学に習熟しきれていない学生のために、科学的表記や分数計算、有効数字 の扱い方までが記述の中に組み入れられており、巻末の付録には、電卓を使った計算の方法も含 めて、別途に解説されている。さらに、本文の途中および章末に置かれている設問では計算問題 が半分以下に抑えられており、多くは読者個人の意見や意志を問う問題になっている。
教師として本書を利用する場合には、授業で強調しあるいは時間をかける部分を社会との接点 にするかそれとも化学そのものにするかについて、授業の目的と学生の状況に合わせて調節する ことができる。この点が、本書の特徴であるともいえよう。例えば、文科系の学生にとって、ア ボガドロ定数という名称と6.022×1023 という数値を暗記するより、1 モルという量の中にある 分子の数、すなわち12 g の木炭および18 g の水を構成する炭素原子の数および水分子の数はゼ ロが23 個もつくような大きな数であることを記憶の隅に残す方が大切であろう。本書は、これ ができる組み立てになっている。
原書は、アメリカ化学会により、アメリカの学生を対象にして出版された。これを反映して、 本書に記される社会問題は、主としてアメリカ社会における状況と世界との関連が取り上げられ ている。読者の皆さん、特に講義用に本書を使われる教育者の方々には、日本の状況を加味しな がら、すなわち、テレビや新聞のニュースおよび日本のウェブサイトを有効に参照しながら、本 書を利用されることをお勧めする。それこそが、本書が持っている特徴を最大に活用することに なる。
翻訳にあたっては、化学の専門用語と日常用語の使い分けに相応の気配りをしたつもりである。 しかし、化学の専門家から見れば許し難い点が残されているかもしれない。目的と状況に合わせ て、適宜読み換えていただければ幸いである。
前回の出版にあたっては、株式会社エヌ・ティー・エス 科学技術情報部 科学コミュニケーショ ン推進室の岡田建夫室長を始めとする皆さんから全面的な協力と支援を受けた。今回は、社長室 の臼井唯伸氏に多大の手助けを頂いた。また、翻訳作業の途中まで松島寿子氏の援けを得た。原 書とのつき合わせによる訳落ち探し、生硬な訳文やおかしな言い回し・用語の指摘など、貴重な 助言に深く感謝する。本書を読んで化学との距離感が縮まった読者がいるとすれば、その功績の 一端は臼井氏を始めとする株式会社エヌ・ティー・エスの編集担当メンバーによるものである。 心から感謝の意を表する。
改訂 実感する化学 上巻 〜地球感動編〜 Copyright (C) 2015 NTS Inc. All right reserved.