2001年のノーベル化学賞が野依良治らの不斉分子触媒の研究に、2009年のノーベル物理学賞が益川敏英、小林誠のCP対称性の破れの研究に授与されたことは記憶に新しい。一方で19世紀L. パスツールの時代から、水晶や酒石酸塩の結晶が施光性を示すことがよく知られている。したがって、原子核、分子といったサブナノの世界で、またマクロの世界での物質のキラリティーとその科学における重要性を認識しない科学者はいない。しかしその中間のナノの世界(10-9〜10-6mの領域)でもキラリティーが重要な役割を演じていることは、必ずしも十分に認識されていないのではないだろうか。
 今日の科学技術では、デバイスやマシンのサイズをマイクロメートルからナノメートルの領域に持ち込むことによって、高密度・小型化、高速化や省エネルギーを可能とすること、さらにはこのサイズの原子・分子に特徴的な量子サイズ効果を発現させ、概念的にも革新的なデバイスやマシンを生み出すことが期待されている。先に監訳を担当し同じ(株)エヌ・ティー・エスから上梓した、V. Balzaniらの『分子デバイスおよび分子マシン〜ナノワールドへの誘い〜』およびG. Schmidらの『ナノ粒子科学―基礎原理から応用まで―』は、主としてサブナノの原子分子を集積させていく「ボトム・アップ」の方式を扱った総合的な名著である。この方式で原子・分子がナノ粒子、単分子膜、ゲル、オリゴマー、ポリマー、液晶、結晶などの形でゼロ次元〜3次元へと成長する際に、キラリティーが移転・増幅されていく。本書は、この過程をどのように観察研究し、物理現象を実用に耐える分子デバイスやマシンへと展開していくかを適切に提示している。生命の起源と関係して、天然のタンパク質を構成するアミノ酸及びDNA、RNAを構成する糖のホモキラリティーがもう1つの重要な課題であり、今日でもアスパラギンの研究で新しい発見が行われている。  原書著者前書きにもあるように、本書は欧州委員会(EC)が科学の学際領域の振興を図って、若手研究者のために主催する中長期の国際共同研究・研修プログラムMarie Curie Research Training Networkが母体となり、その打ち上げとして、2007年9月にスペインで開催された国際会議“ナノスケールでのキラリティー”の講演を基礎としている。第1章にはキラリティーの概念、歴史や全体像をまとめてあり、オムニバスの欠点を補っている。この種の学際領域のシンポジウムでは、既存の学問領域の1つ、たとえば有機化学が中心となりそこへ他の分野、たとえば物性物理の専門家を一人招くというようなことが多いが、本書ではバランスよく多くの専門性がカバーされている。
 今回も物理化学・分光学の専門家である廣瀬千秋博士と有機化学を背景に持つ岩村とが相補的に作業を進め、新語の訳などで意見交換を尽くした。この間(株)エヌ・ティー・エス編集部が調整連絡に励んだ。その中でもchiralityについては、我が国の物理学者の間では“カイラリティー”の訳語がよく使われるが、本書では、『岩波理化学辞典第5版』、日本化学会編『標準化学用語辞典第2版』、『広辞苑第6版』、Wikipedia(フリー百科事典日本語版)に従い、“キラリティー”を用いたことをことわっておきたい。
(「監訳者のことば」より  2010年2月 岩村 秀)
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