監訳にあたって

 初めて,ドイツ語で書かれた大部の著書,「Dioxine」を手にとったのは,ダイオキシン問題が遅ればせながら日本で盛んに報道されはじめて間もない頃である。ダイオキシン対策が遅れがちな日本に比べ,すでにこんな本が出ているということで感嘆した。というのもダイオキシンは,化学に関する限りにおいて,日本で先鞭がつけられた研究であるからであり,私もかなり以前からその高い毒性を耳にしていた。
 われわれは,物質的にも,エネルギー的にも,また経済的にも豊かな生活をせっかちに追い求めてきた結果,自然にはかつて存在しなかった有害物質を自然環境に放散させる結果となり,現在,いくつかの深刻な問題が起こっていることは周知のところである。一般に有害物質は単にローカルな場所での問題にとどまらず,全地球環境レベルで自然のエコロジーを撹乱するほどの人為的な大きい変化を与えるようになってきている。それらの撹乱因子は,一過性のものと残留性の大きいものに大別されているが,一過性のものでも,遺伝子損傷のようになると,その影響は世代を超えて残存し,その区別をすることは厳密には難しい。ダイオキシンは残留性の大きい有害物質の典型例である。またダイオキシンは,安定性の故に,ローカルな問題として扱われるものではなく,全地球規模で広がりつつある有毒汚染物質である。またダイオキシンの毒性については,早くから一部の研究者によって指摘されていたが,その構造の多様性のためその成因の追及,分析,毒性評価などに時を要していた。
 さらにダイオキシンは,今日においてだれもが知る有害汚染物質である。ダイオキシン生成の原料出発物質となる一部の含ハロゲン有機化合物が,今日でもなお,われわれの日常生活を便利にするためのプラスチックス,薬品,添加剤などの有機材料として多用されており,今後もそれらから発生するダイオキシンを無視することはできない。現在,ダイオキシンは非常に大きい社会問題として取り上げられているところであり,こうした状況にあってこそ,ダイオキシンに関して正確な知見を持つということはきわめて大事なことであるといえよう。
 こうした時に,ドイツ,ウルム大学のKarlheinz Ballschmiter教授とReiner Bacher博士による「Dioxine」が,1996年にVCH社から発行されたのである。この本の副題は,―化学,分析,発生,環境汚染,毒性―となっており,記述は詳細であり,結論の導出に対する慎重さの重要なことも教えてくれる。この本が発行されてから3年が経っているが,ドイツ語で書かれていたためか必ずしも日本では多く読まれていない。
 しかし,内容は今なお新鮮であり,ダイオキシンについての現在の基本問題そのものを偏することなく明確にしており,詳細である。それ故に,大部ではあるが一日でも早く翻訳して日本に紹介したいと願い,ここにようやく発刊に至った。
 発刊に際しては本翻訳書,すなわち「ダイオキシン」の日本語版の出版計画を快く受け入れて下さった著者Ballschmiterウルム大学教授とBacher博士に,この紙面を借りてお礼を申し上げる。
 また,翻訳は上条泉氏によって精力的に進められ,私がそれを監訳させていただいた。できるだけ原文に近い忠実な翻訳を残そうとしたため,ぎこちない訳文の個所もあるがお許しいただきたい。
 なお,原文に見いだされた明らかな誤植には訂正を加えた。
 最後に本書の製作を引き受けていただいた(株)エヌ・ティー・エスを評価するとともに,編集作業の裏方を果たしていただいた冨澤匡子氏の労に多大の感謝をする。
 この本が,多くの人々の傍に優れた必須の座右の書として置かれ,今後のダイオキシンの諸問題の解決に少しでも役に立てば幸いである。
1999年10月  監訳者代表  清水 剛夫
序文

 80年代初頭まで「ダイオキシン」は,世論では大抵の場合,化学プラント事故との関連でしか取り扱われなかった。このような事故では,トリクロロフェノール生産の残余物が無配慮の化学反応を起こした結果,ダイオキシンが放出され,従業員がクロロアクネ(塩素タダレ)を患った。この種の事故で最も被害が大きかったものは,1976年7月に北イタリアの小都市イクメサで起きた事故で,トリクロロフェノール反応炉の内容物がセべソという名の村に降り注ぎ,400haもの土地が2,3,7,8−TCDD(テトラクロロジベンゾダイオキシン)で汚染された。このタイプのダイオキシンは,全部で210種もあるポリ塩化ジベンゾパラダイオキシンとジベンゾフランの中でも「セべソ・ダイオキシン」という痛ましい名のもとに有名になったものである。このような事故と,毒性が強く,なおかつ幅広く効力を持っていることから,多くの人々の間で「ダイオキシン」は,物質生産の裏でひそかに健康を脅かす危険物と同義語になった。
 しかし,ダイオキシンの歴史は分析的方法の発展を伴っている。分析法の発展によって,今日210種の化合物全部が実証され,検証限界値をmg(ミリグラム)/kg(ppm)からng(ナノグラム)/kg(ppt)以下に下げることを可能にした。分析方法は,6ないし7桁も感度が高められたのである。
 ウルム大学の分析化学および環境化学講座では,1980年にドイツで初めてゴミ焼却炉での大掛かりなダイオキシンの測定が行われた。もっぱらこのような作業の結果と運転上の経験から,ゴミ焼却炉でのダイオキシン排出減少措置法の発布と実施法が導入されたのである。西側工業諸国においてこの時期に行われた大掛かりな測定結果は,この執拗で生物濃縮性の物質を,熱処理と塩素有機物質の大型製造プラントが1940年代以来,偏在的に大地,河川と湖の沈降物,および食物連鎖の中で濃縮してきたことを明らかにした。
 ドイツも含めていくつかの工業諸国で大規模な予算枠をもって実施された研究は,とくにこの物質に起因する人体に対する幅広い毒性効果,そしてまた数多いダイオキシンの発生源の突き止め,その蔓延,分解および環境内での行方について明らかにすることを目的としていた。意外であったのは,例えば,ラインフェルデン地域にある工業廃虚地のように,ダイオキシンの歴史は,世紀の変わり目の頃に塩素アルカリ電解質が大規模な産業上のプロセスとして使われだしたときまでさかのぼることができるということであった。
 部外者あるいは実際に研究に携わる専門家の中でも,たった一つの物質群の研究のために,このような膨大な研究スタッフと予算が投入されるだけの正当性が,はたしてどこまであるのだろうか,という疑問を持った人がいたであろう。この疑問は,環境に対する影響についての研究がまだ比較的不十分な物質で,実際に使われているものがドイツだけでも約4,600種類,10jato(トン/年)以上も売買されている現実を見れば当然なことが納得できる。
 私は,この本で著述されている深い化学的知識,分析技術,およびダイオキシンの環境に対する影響が,ほかの物質においても利用できるものであることを確信している。最新の研究成果に基づくこのダイオキシンの標準的な著作を注意深く読んでいただくと,ダイオキシン問題だけではなく,基本的に化学,環境分析,執拗に残留し濃縮されるすべての物質の蔓延と分解という問題に関して記述されていることが分かる。この本に収集されている多くの学問的知識は,環境に対して問題を起こす物質の評価に対して基本的な内容を持っており,そのためこの本は,部分的に物質評価のための手引きとしても役立つものである。また,この著作を読むことによって,物質に由来する危険性に関するわれわれの知識というものには常に一定の限界があるものだという認識を与えてくれる。
 物質の取扱いを事前に注意深く行う方が,後から被害を取り除くよりも常にコスト的に安い。われわれはいままでにない,持続的に環境にストレスを与えないような物質の取扱いを行うことを要請されている。そのためには,ドイツ連邦議会の諮問委貞会の最終報告「人間と環境の保護」で要請されているように,物質の生産と取扱いにあたって,自然の摂理のすべての機能,とくにデリケートな自己制御機能に配慮をしなければならない。
1996年5月,ベルリンにて  Horst NeidIlard
まえがき

 「ダイオキシン」は20年の密度の濃い学術的研究と議論を経た今日,マスメディアからもっぱら「古い情報」として片づけられがちである。しかし学問レベルでは,特定の問題提起の面でまだまだ掘り下げるべき問題があり,しばしば新たな発見を報告することができるということは注目に値することである。
 私たちは,「ダイオキシン」のテーマをできる限り総合的に紹介するように努力した。これによって初めて,一つ一つの重要点がほかの問題提起によって強調ないし相対化されるからである。それぞれの章には,各々テーマごとに関連領域の前後参照を挙げておいた。原則的にこれらの章は,内容的に独立したものとして書かれたものであるため,部分部分での重複を完全に避けることはできなかった。
 きわめて幅広く,批判的に原典には目を通したが,重要な論文が欠けていた場合は大めに見ていただきたい。これは意図的にしたことではない。引用した文献は,該当する問題にとって代表的なものであり,あるいは報告書としての性格からより詳しい調査結果を得ることができるものである。
 原稿を批判的に読み直していただいたアウグスブルグのM.Swerev博士,バーゼルのB.Schatowitz博士にはこの場を借りてお礼を言いたい。
 また,E.Schlunck女史には,疲れを知らずに校正してくれたことに感謝したい。
 ウルムのG.Kaiser博士には図の最適化に協力していただいたことにお礼を言いたい。
1996年7月,ウルムにて  K.Ballsehmiter
R.Bacher
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